『文学とテクノロジー』ツイートまとめ(誤字脱字右往左往御容赦)

文学とテクノロジー (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)

文学とテクノロジー (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)

 

 

サイファー『文学とテクノロジー』読み始め。ホッケ本が不可逆的に膨らんでいくマニエラの宇宙なら、こっちはテクネーの芯に貫かれた地球儀。高山宏にかかると全てマニエリスム本という括りになってしまうけれども(笑)。科学に対する藝術の態度を見極めるために、サイファーは科学と技術を分ける。
  つまりテクノロジーとして括ると、ニュートンガリレオ的な方法だけではなく、トーテミズム(サイエントロジーでもいいけど)のような非科学的で原始的な世界の把握をもひとつの方法として扱うことができる。それに距離という観点。いろいろ感性の思考と被る。離れて見るというより、触らない、かな。
 サイファーは、トーテミズムを一回限りの積み木遊びのようなものとして論じている。科学の再現可能性と対照させてまとめたほうがわかりやすかったかも。つまり、再現できない一回限りの非科学的な方法もあるということ。それが藝術において科学と混同、疑似科学化されるのが近代なのかな、という予想。
 サイファー『文学とテクノロジー』読了。文学における機械表象本だと思って読み始めたのだけども、案に相違して、遠近法の成立から人とモノとのあいだの距離をコントロールするテクノロジーについて説き起こし、文学と科学技術が渾然一体となって人間疎外の極北が19世紀末に頂点に達する、という本。
 さんざん議論が紆余曲折しているけれども、吝嗇・節約・合理化の「方法」、それから自然を観察して表象する「ミメーシス」が、テクノロジーの問題圏を貫いている。文学だけではなく、美術や哲学についても雑種混淆的に論じている。
 リアリズムやデカダンの作家たちが方法に溺れ、疎外を深刻化させていく傍らで、ディケンズは例外として扱われている。
 20世紀の藝術において、世界が深さを失い、平面化していくというお馴染みの時代認識をサイファーも共有しているが、彼はディケンズの「参加(メクセシス)」はそうした未来の文学の方向性を先取りしている、と評価する。
 私見では、世界の平面化がテクノロジーの発達、近代化の帰結であるなら、「ミメーシス」が廃れ「メクセシス」へと駆り出される、と言った方が正確ではないだろうかと思う。世界に襲われ、巻き込まれ、「メクセシス」だけが可能な時代。
 とまれ、テクノロジーが観察のための距離をつくり、そしてまたその距離を霧消させ、世界を平面にしてしまう、というアイロニーを、サイファーは克明に描いている。また、テクノロジーが無感性化、不感症を引き起こすという指摘は鋭く、感性論とも一脈相通じる慧眼が随所に見られた。
 それから、バシュラールの特権的な位置。結語付近の平面論を読むと、現象学の可能性、新現象学の登場を予見していたようにさえ思わせる。表象から現出・現前へ。〆