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とあるエンジニアが嘘ばかり書く日記

Twitter: @propella

アートと組織と個人

アートと共産主義は似ている。

近頃ブスのビデオとかヴィトンのバッタとか、アート関係でなかなか面白い(痛い?)話題が多い。アートについては大して勉強しなくて恥ずかしくてあまり最近書いてないけど、定期的に自分の考えを記録しておくと後で面白いだろうと思うのでこの瞬間の思う事を書く。

まず、アートとは何かと言った時、個人の思うアートと社会にとってのアートはぱっくり分けて考えた方が良い。個人の思うアートは、一人一人が心の中に持つアートの理想の形の事で、私も昔書いた(「美について」 http://d.hatena.ne.jp/propella/20080621/p2)。アーティストが追求するべきなのは個人の思うアートだ。これは自由であると同時に他人からとやかく言われる物でも無いので、議論しにくいからここでは省略する。

もう一つの社会にとってのアートとは何だろうか。ここではサブカルチャーに対するハイカルチャーの事を考える。サブカルチャーというのは、漫画や歌謡曲みたいに商業ベースで大衆に支えられている文化で、ハイカルチャーは美術やオーケストラみたいにお金持ちや税金で支えられている文化の事だ。ぶっちゃけ、なぜハイカルチャー補助金で優遇されるかを問題にする(「資本主義カルチャーとしてのアート」 http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100627/1277647804)のじゃなくて、補助金で優遇するものをハイカルチャーと呼んで良いと思う。

ここで意思決定のプロセスだけに着目してみよう、社会の中でのハイカルチャーサブカルチャーの対立は、共産主義と資本主義に似ている。もっと一般的に、組織と個人の対立と言ってもいい。逆説的だけど、ハイカルチャーは組織が文化を生み出す仕組み、サブカルチャーは個人が文化を生み出す仕組みと考える事ができる。

共産主義というのは、平等主義という部分を抜いて意思決定だけで考えると、個人の理性を使って資源の分配ができるという主張だ。この計画によって良い社会を作るという理想は、全体主義であると同時に強力なエリート個人の意志に依存する。なぜなら、計画というのは結局誰かの意志から始まるものだからだ。

資本主義というのは市場が経済をコントロールする仕組みだ。だれか特定の個人の意志よりも、市場という名の壮大な多数決によって資源が分配される。資本主義では個人の自由が尊重されるが、同時に一人の個人どころか政府でさえも資源の分配をコントロール出来ない。そんな事ができればとっくに不況は終わっている。あたかも、市場はみえざる手という独立した意志のような物で動く。

さて、この対立を文化に当てはめてみよう。ハイカルチャーが成り立つ背後には、文化的エリートが社会に必要な文化を決定できるという前提がある。政府による文化振興は、政府が必要な文化を選択する仕組みだ。企業や資産家がアーティストを援助するためには、それらのエリート達、または代理人たるキュレーターが文化を選択できるという前提がある。個人が個人を評価するので、アーティスト本人の主張や感性、人間性から血統までが最大限に評価される。

一方でサブカルチャーは市場原理によって淘汰される。識者や評論家達がどのように評価しようと、市場の評価を制御する事は出来ない。大衆とは「みえざる手」の別の呼び名だ。大衆の琴線に触れる事さえ出来れば、アーティスト自身の主張や人間性は全く問題にされない。

うまく書けたか分からないけど、言いたいのは全体主義は個人が動かし、個人主義は全体によって動かされるという興味深い関係がある事。そしてハイカルチャーサブカルチャーの関係も、その一つのバリエーションだという言う事だ。

この比喩は、社会の中でのアートの位置に留まらず、アートに参加する人々の性格もよく現す。アーティスト達の性格を分析すると、ざっくりみんなアナーキーで、ぼくたちはみんな全共闘や反万博に遅れて来た人々なのだ。アーティストの貧乏臭さとセレブ指向は矛盾していない。社会は市場ではなく理性によってデザインされるべきだという理想から多くの資産家が共産主義者になったように、市場ではなく個人の意志が文化を生み出すべきだという理想がハイカルチャーを生み出す。

意地悪な書き方をすると、そこから最近のなんでもありアートまであと一歩だ。大衆は技術を好む。とアート関係者は考えている。なぜなら技術は比較しやすいからだ。ということは市場ではなく意志が文化を生み出すためには、アートは技術に依存してはならない。アートは技術から自由で無ければならない。アートはなんでもありでなければならない。そして税金がなんでもアートを生み出す。

(さっきアーティストでは無く、アート関係者と書いた理由は、わりとアーティストも技術が大好きだからだ)

組織と個人という二つの力学はどっちが正しいという訳ではなく、社会のいろいろな場所で補い合って働く。最近話題の Apple 社の動きなんか分かりやすい。ジョブズという一人のカリスマが、Apple という秘密主義、全体主義な企業を動かし、それを無名の消費者が支持している。ここでは全体と個人の力学が卍型に折り重なっている。

また、「組織度(大)から個人度(大)」 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100705 の記事にもあるように、この二つの力の強さは歴史的に波を描くように移り変わる。その意味で、サブカルチャーを近代特有と見る見方(「アートの定義」http://d.hatena.ne.jp/culture-pot/20090726/1248573076) には同意できない。歴史はいつも現在の為政者によって作られるので、サブカルチャーが歴史に残らなくとも不思議は無い。

この「組織度(大)から個人度(大)」の中のグラフで、幕藩体制、明治官僚体制、大政翼賛体制、企業戦士体制のような組織度(大)の時代にアートが盛んだった事を裏付ければ私の主張がすっきり収まるのだけど、ちょっとそれは出来過ぎかな。