実感がないという実感 2004年06月22日(火)03時03分08秒
こんにちは。
一連の書き込みを読んで、いろいろと考えを巡らせています。
以下、Rさんの掲示板に書かれた
「佐世保小6同級生殺害事件/完璧な表現と内実の空疎」
(引用文省略)
私は、アピールというより、それすら無意識だったんではないかと思うのです。
親をなくした友人がそばにいるのに他の子たちが親がいないほうがいいと言って
いることに対して、怒りを感じて、それを自分の立場からでなく「友達の言葉を
使う」形で表現してしまうこと。
友達と同化して語ってしまうこと。
そうすることが相手の気持ちを置き去りにする可能性には彼女は気づいていなかっ
たのではないでしょうか。
共感したようでいて、友人がなにを望んでいるかのほうが置き去りになってしまう
可能性のある「同一化」、人を守ることのできる独立した自分にはなりきれない弱さ
というのを、かつて持っていたことを思います。今も持っていると思う。
(それがデリカシーがないという部分ですよね。)
自分の立場がなくてまずすっとなにかに同化する(できない部分である自分自身は無く
してしまう)危うさがあると感じます。
それがいわゆる「いい子」を演じると言われることだと思います。
そこから考えると、近くにあるものを自分の言葉の代わりに取り入れてみることは、
自分に強い印象を与えた「人の感情の発露の仕方」をトレースしてみることで、
せめて何かの手触りに触れようとする、そういう変な努力もあるのではないかと思います。
それは取り入れることで何かに合わせるという働きと同時に、取り入れてみることでせめて
自分に触れたいという思いもあるように思います。
(あまりに自分のことと同じだと思い込むのは、違う部分を見つけないので、以上の私の言葉は
断定的過ぎるかもしれません……)
でも本当に自分であることを知りたいと思ったら、人と対照にならなければならないこともある。
それが決して相手の全否定にはならないこと。
人と違うということが相手への否定ではなく存在できるということ。
人と同じ思いであるということが没個性ではないということ。
そういった信頼感が、表面的に同じであることを求められるなかで、自分からも人からも、
総じて世の中からも失われてきたような気がします。
女の子の日記より
『ご飯』
『失礼でマナーを守っていない』
『ごく一部は良いコなんだけど』
という部分は、たぶん身に付いた丁寧な言葉が消しきれていない部分のように思います。
『顔洗えよ。』という言葉遣いのつたなさに、慣れない言葉を使っている感じがあります。
おそらく、ネット言葉の影響で書きつけてみた暴力的な日記は、彼女の気持ちを
代弁はしなかったはずです。
(それは表現の手前で止まっているし、なにも重要なことは伝えていないのです)
そしてその後に起こした被害者を傷つけて殺した行動も、彼女の気持ちを表現することはありません。
殺人は気持ちの代弁にはなりません。
結局のところは、そんな酷いことの後で、自分で言葉を探して伝えて行かなければならない。
でも今はまるで殺人がなにかの表現のごとく、くたくたになるまで読み解かれようとします。
無い謎を見つけるが如くです。
後から遅れて出てくる底のほうからの言葉を待たず、殺人を表現として読み解こう
とする動きは、殺人への境界を薄く弱くしているように感じることがあります。
犯罪を犯した人間への「共感」を持つこと自体はそうおかしなことではないかもしれない。
けれどそれがイコール別の殺人へつながったり、
影響でやりましたという言い訳がさも本当の原因のように言われまかり通っているなかで、
こう感じたら人殺しをしてしまうものなんだという認識を、言い訳を、弱さを、今使われてい
る解釈というものが人に与えてしまってはいないでしょうか。
(それに動かされる人間ばかりではないとしても、それを利用できたり、真に受けてしまうある真面目さと小心さを持つ人も、ある程度いると思います)
恐ろしい行為をした人間や、恐ろしい思いをして亡くなった人たちに対する畏れや距離を失って
理解できない部分を見るだけの目の強さを失って、
ただ同化してしまうたやすさを、つくってきたものはなんでしょうか。
なにかの埋めてはいけない溝を、どんどん埋めているのはなんでしょうか。
それはどうしてでしょうか。
具体的にどこから変えていけるでしょうか。
うまく言うことができません。
言葉も知識もまだ足りないです。
私はおそらく元々はこの事件を起こした少女のつかめなさがわかると思ってしまうほうの人間です。
たまたま『わかる』と言われてしまうことがどんなにやられたほうにむごい言葉であるかを知ったた
めに、わかると言うことをせき止めているだけの人間です。
その実感の無さ、つかめなさがそのまま彼女たちの実感であるということ。
それを正すというより、そこからの言葉をもっと聞きたい気がします。
それをわかると言うためでなく、その場所から実感の世界への道筋を見つけるために。