熊野に続く道(2)

日頃は車で走っている道でも、たまに自前の足を使って歩いてみると面白い発見ができるものです。
近くに出来た府道は長さ数百メートルのバイパス道ですが、和泉の熊野街道と重なっているのに気づきました。それに歴史の説明板や史跡が点在しています。そのひとつに取石池跡があります。
s_IMG_2353rs
千年来の取石池は昭和16年に消滅、食糧増産を目指し埋め立てられて水田になりました。16年といえば太平洋戦争へと突っ走った年。
s_f_0003
この高石市の取石6丁目にあった取石池(トロシ池)は、奈良時代から景色の良い場所として知られていたようで、万葉集にもその名を織り込んだ歌が出ているということです。

 万葉集 第10巻 2166番 詠み人知らず
 妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし
 (拙い訳ですみません)
 取石池の波間に浮かぶ水鳥の鳴き声が、昨日までと違って聞こえるよ。ああ、もう秋も過ぎてゆくのだなあ。愛する妻を抱きしめることはおろか、もう長いこと 彼女の手さえも握っていないのに。

取石池の近くには聖武天皇の頓宮(行幸の際の仮宮)がありました。
西暦724年、奈良の平城京の時代のことです。天皇のお供としてやって来た役人のひとりが、池の土手に佇んでいました。都に残してきた愛妻、あるいは恋人を想っていたのでしょうか。ぼんやり夕日に染まる取石池の水面を眺めていると、カルガモのつがいが仲良く浮かんでいたりします。枯れたススキの穂が風に揺れ、カイツブリの叫び声のような鳴声が哀しく響きます。寂しくて切ない秋の夕暮れです。パソコンや携帯など無い時代、やるせない想いは耐えるしかありません。僕には痛いほど気持ちが分かります。
「せめて歌でも詠むか」
とまあ、そんな感じでしょうか。
さて、1300年も昔から名所として知られた取石池は、何と昭和の時代になって埋め立てられたそうです。奈良から京都へ都が移っても、眺めの良い取石池にはきっと和泉式部も訪れたでしょうし、熊野御幸の際に藤原定家も立ち寄ったのではないでしょうか。かえすがえす残念です。泉州弁で言うと、「ほんま残念やし」。
付近にホテイアオイで覆われた小さなため池があるのですが、ひょっとしたら取石池の一部、名残なのかなあと思っています。
s_f_0002