第56回粒々塾講義録


「東北学その24〜今年も“哲学”ではじめよう」


塾長からの「最近、世の中で問題になっていることどう思うか」という声から始まった今回の塾。
テーマは、昨年につづき“哲学”であったが。

フランスのパリで行われたフランス史上最大のデモ。デモには各国の首脳も参加したという。“政治新聞”「シャルリ・エブド」がイスラム過激派により襲撃され12人もの死者を出した。その他のテロもあった。死者17人。

シャルリ・エブドが掲載したイスラム教指導者の風刺画が事件の発端だ。果たして、この事件は言論の自由の対象になるのか?と塾長がいったのが私はとても印象的でした。

フランスはかつて植民地政策でアルジェリアを弾圧支配下においていた過去がある。事件の容疑者はアルジェリア系の移民であるとういう。その歴史が連想される。

アルジェリア系フランス人がフランス社会の中で非常に不利で軽々しくあつかわれてきた。その新聞社もフランス人からは注目されたはいなかった。
しかし、事件が起きると「事件で亡くなった死者を尊重しろ」という声が高まり言論・表現の自由が言われ出した。“私はシャルリー”のプラカードを掲げている。だれの何に対する言論の自由なのか?

言論の自由とは、社会の多数派からの抑圧からの自由のはずだ。突然と“私はシャルリー”がフランス全体をおおうことこそ全体主義のまやかし=マインドコントロールのようなものにハマってしまっているのではないか?そんなことを思った。

塾長はこんな話をした。

 フランスの哲学者で、社会学者でもあるギュスターブ・ル。ボンの考察。
著作「群集とは」のなかで、群集をこう定義している。
「群集は、①感染する②過激に走りやすい③衝動的である④暗示に弱い⑤時に高き徳性を示す⑥国民も群集化する⑦反復・断言に弱い⑧同一化する⑨服従する」。

第二次世界大戦時にアドルフヒトラーは、⑥国民の群集化と⑦反復断言に弱いという性質を巧みに利用しドイツを全体主義へと転化させた。また、ヒトラーの部下でユダヤ人の強制収容所所長であったアイヒマン終戦後、イスラエルで裁判にかけられた際に「ヒトラーの命令でユダヤ人の処刑への許可をだしていた。しかし、あれはルーティンワークであり仕事だった」とかたり無罪を主張した。異常なとこも繰り返せば日常になり、また服従していると罪悪感もなくなっていくのであろう。

裁判を傍聴し続けたドイツ出身の学者、アンナ・ハーレントム、その裁判の様子を本にし、アイヒマンをして「悪の凡庸さ」と指摘した。ヒトラーは著書「わが闘争」のなかで、「大衆は愚かで女性的だ。嘘も1,000回言い続ければ真実になる」と語っている。

日本で思い出すことは無いか、オウム真理教事件だってそうだったではないかと言われた。

「群衆」というくくりで見ると見えてくるものがある。

だから、アーレントが投げかけたものは「悪への対抗手段として、考えること、思考停止に陥らないこと、物事の表面に捉われないで、立ち止まって考え始めること」だと、“哲学”の道にまたいざなわれていった。

 前回の塾で、塾長から「即自存在」と「対自存在」とはという宿題を出されていた。それをもう一回問いかけられた。

即自存在とは、すなわち“道具”である。つまり、その使い道や本質はあらかじめ決められている、本質は、実存に先立つということである。対自存在とは、言うなれば“人間”である。生きている中で決断・選択した行為によって何者にかになる。本質はあらかじめ決められていない。そう、未来を自ら切り開いていくことだ。実存は本質に先立つというサルトルの哲学。
そして、決断・選択の行為によって何者にかになる人間であるならば、学ぶことや教育は非常に重要な問題となってくる。そんな話の展開。

テニスの錦織を指導した松岡修三は、「彼には確かに指導したが、彼からも学んだことがある」と話す。学びとは、相互から得ることが多い。例えばそれは、逆上がりの出来ない小学生の女の子の話や、塾に通わず自分の祖母に学校でならったことを教えた小学生の話を例に語られた。

教育とは何か?定義すると、それは社会投資であり社会資本となる。学校とは、知識のつめこみの場ではない。学習塾とはどういう存在か。

社会構造が少子化へと変わり、こどもの6人に1人は貧困。それが原因で学校に通えない等の問題も出てきている。また、フリースクールなど学びの場の新しい形が出現している。あらためて、教育とはなんだろうか?と問われる時がきているのかもしれない。

今の社会は、否定形の社会と言われる。“〜してはならない〜をしない”打消しが多用されている社会だ。しかし、それでは、マニュアルにない予想外のことが起こると思考停止に陥る。

例えば3・11の時の避難所。3000人の避難者に対して、2000人分の支援物資しかない。さあ、どうするか?阪神淡路大震災の時に経験あしたこと。しかし、それgは3・11で生かされていたか。

マニュアルにはない予想外のことにも、対応していける人間が求められる時代がきている。それは、いままでの教育の仕組みの知識の詰め込みでは得ることが出来ない想像力だったり発想する力なのかもしれない。

学校教育だけではない「教育論」の入り口・・・。また次回もつづくという。


 最後に、「教育とは」について先人の言葉を。塾長から紹介された中でも印象的だったのは、ルソーの「世界で一番有能な教師よりも、分別ある平凡な父親によってこそ、子どもは立派に教育される」でした。自分にとっても非常にタイムリーなことであり改めて教育と哲学について深く思う一夜でした。


「やまお記」