2012-02-09
■[アイヨシ][プチ書評]『都市と都市』(チャイナ・ミエヴィル/ハヤカワ文庫)
- 作者: チャイナ・ミエヴィル,日暮 雅通
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/12/20
- メディア: 文庫
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都市をながめるには、目を開けているだけではだめだ。第一に、それを見ることを妨げているものすべて、一般に容認されている意見や、視界と理解力を妨害している先入見を捨て去ることが必要だ。それから、見る人の目の前に次つぎに都市が差し出す膨大な数の要素を本質へと限定して、単純化しなくてはならない。そして機械の機能が理解できる図式のような、ちらばった断片を分析的で統一された構図にまとめるのだ。
『水に流して カルヴィーノ文学・社会評論集』(イタロ・カルヴィーノ/朝日新聞社)所収「都市の神々」p361より
ヒューゴー賞、世界幻想文学賞、ローカス賞、英国SF協会賞受賞といった文字が表紙に踊っているのを見ますと、それだけで期待感が否応なく高まりますが、いざ実際に読んでみると何とも奇妙なお話です。とりあえず裏表紙からあらすじを抜粋しますと……。
ふたつの都市国家〈べジェル〉と〈ウル・コーマ〉は、欧州において地理的にほぼ同じ位置を占めるモザイク状に組み合わさった特殊な領土を有していた。べジェル警察のティアドール・ボルル警部補は、二国間で起こった不可解な殺人事件を追ううちに、封印された歴史に足を踏み入れていく……。
といったお話です。本書の奇妙さは、”モザイク状に組み合わさった特殊な領土”という都市とそれを支える文化の特殊性にあります。べジェルとウル・コーマのふたつの都市国家の間には物理的な壁は存在しません。その代わり、意識的な無意識の壁が存在しています。どういうことかといいますと、両国の国民は互いに相手の国が存在しないように振る舞わなくてはならないのです。一方の都市の住人は、他方の都市の住人や建物や車といったものを見ることも、それらが発する音を聞くことも禁じられています。ふたつの都市国家間において、相手の都市が存在していることは公然の秘密なのです。だからといって、ふたつの都市の間に交流がまったくないのかといえばとそうではなくて、それぞれの旧都市の中心に存在するコピュラ・ホールを通れば合法的に両国間を行き来することができます。ただし、ウル・コーマからべジェルに入国すればウル・コーマが見えなくなりますし、ベジェルからウル・コーマに入国すればベジェルが見えなくなります。
そうした訓練を、ふたつの都市の住人は幼い頃からの鍛錬によって自然に身につけています。視覚や聴覚といった感覚器自体は正常に機能していますので、相手の都市を見たり聞いたりすることはできています。その上で、それこそ無意識のレベルで瞬時に判別を行ってその存在をシャットアウトします。これは両都市の住人にとってもっとも基本的なルールにして常識です。そうしたルールを破る行為は〈ブリーチ〉と呼ばれています。〈ブリーチ〉を公然と犯した者は、謎のどこからともなく現れる謎の組織の一員によってどこかに連行されてしまいます。何といいますか、哲学的な作品のようでありながらギャグ漫画みたいでもある不思議な設定のお話なのです。
こうした奇妙な設定や背景が作中で丁寧に説明されることはなくて、主人公であるボルル警部補のハードボイルド調の一人称視点描写から自ずと理解していくほかありません。ボルルが追うことになる事件は、ふたつの都市をまたいで発生したと思われる殺人事件です。読者は殺人事件の捜査と謎を取っ掛かりとして、殺人事件だけでなくベジェルとウル・コーマというふたつの都市国家について理解することも求められます。そして、読者がそれを理解した頃、〈ブリーチ〉がボルルの身にも迫ることになります。
本書の取っ掛かりはミステリ的ですが、「見えてるけど見えていない」という本書の設定は、ミステリ読み的にはとある郵便配達員にまつわる古典的有名トリックを思い起こさずにはいられないでしょう。実際、私たちは日常生活において見えているものすべてを認識しているわけではありません。視覚や聴覚から入ってくる様々な情報に優先順位付けが行われ、あるいは精神衛生的倫理的ブレーキがかかったりなどして、情報は取捨選択されています。同じ場所にいるからといって、あるいは同じものを見ているからといって、同じものが見えているとは限りません。本書はそうした人間の認識の仕組みや意識のフレームがデフォルメ化された作品だといえます。
都市という概念を生み出しているのは人々の意識以外の何ものでもありません。ベジェルとウル・コーマの間には物理的な障壁が一切ないことからもそれは明らかです。にもかかわらず、ベジェルとウル・コーマにおいては、都市が人々の意識の枠組みを生み出して決定付けています。本書の始まりは殺人事件ですが、本書の主役にして真のテーマは都市です。そんな都市と個人との関係を強調して描き出すために、個人と孤独を描くハードボイルド調の語りが用いられています。個人と都市との関係という観点からすると、セカイ系(【参考】セカイ系 - Wikipedia)などを引き合いに出して考えてみるのも面白いかもしれません。
ただ、好みの問題といわれればそれまでですが、本書の結末はどうにもカタルシスに欠ける気がしないでもないです。いやいや、それだといったい何のためにここまで頑張ってきたのか……と思わずにはいられないのです。ですが、テーマに殉じるという意味では、この結末しかないのかもしれません。つまるところ、本書は都市が主人公のお話なのですから。ありがとう、そしてさよなら。オススメです。
2012-02-08
■[フジモリ][マンガ]丸山薫『ストレニュアス・ライフ』ビームコミックス
- 作者: 丸山薫
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2011/06/15
- メディア: コミック
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雑誌『Fellows!!』にて連載されていた、「職業」にまつわる24の短編です。
世界で最後の象使い、犬の歯医者さん、鷹匠OLなど様々な職業の登場人物たちの一コマを切り取っています。
読みやすい絵と基本コミカルなキャラクタたちが繰り広げるドタバタ。
1話が数ページと短いながらもお話としてうまくまとまっていますし、何よりそれぞれのお話に「意外性・驚き」が込められています。
この「意外性」についてはネタバレなしで伝えることは非常に困難なので「試しに読んでみて下さい」としか言えないところがもどかしいのですが、なんというか、1話ごとに「おお」「へえ」と声を漏らしてしまう感じでした。
フジモリごときが口にするのは恐れ多いのですが、SF作品で使われる用語、「センス・オブ・ワンダー」。
SF小説を読んだ際に感じることのある、ある種の不思議な感覚を説明する為の語。
まさに読むごとに心地よい「不思議さ」を感じる、宝石箱のような短編集だと思います。オススメです。
【ご参考】作者のHP「MARU PRODUCTION」
ストレニュアス・ライフ PV (Long ver.)
2012-02-07
■[アイヨシ][プチ書評]『バレエ・メカニック』(津原泰水/ハヤカワ文庫)
- 作者: 津原泰水
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/01/25
- メディア: 文庫
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本書は三章からなる作品ですが、解説の柳下毅一郎の言葉を借りれば”『バレエ・メカニック』は華麗なるシュルレアリスム小説としてはじまり、不遜なサイバーパンクSFとして終わる(本書解説p284より)”作品です。
第一章では”君”という二人称視点による語りが用いられています。二人称による語りは、作中の登場人物の視点を読者に直結させる押し付けがましい描写です。それでも、”君”が無個性な人物であれば、そうした押し付けがましさもいくらか緩和されますが、本書における”君”には木根原という名前があります。作中のどこにも読者である「私」の居場所はありません。それでは何ゆえ本章が”君”という二人称という特殊な視点による語りを採用したのかといえば、それは、作中で生じる不可思議な現象を読者に体感させるためです。
木根原には理沙という娘がいますが、9年前に海辺で溺れてから昏睡状態となっています。脳幹の機能は活発でありながら大脳皮質の大半が壊死している、いわゆる植物状態で長期間の入院生活を送っています。そんな理沙の脳と都市との間に、ある日、ネットワークが結ばれます。”命題、都市は人間の脳を代替しうるか?”(本書p66より)
「隈なく巡らされたワイヤー、ひっきりなしに飛び交う電磁波、空間を埋め尽くすノイズ、無尽蔵に蓄積され増殖を続ける情報、そのなかで暮らす個々の人間の脳や神経――都市の無数の要素が絡み合った結果、奇蹟的なネットワークが形成され、理沙ちゃんの壊死した新皮質の機能を、いささか歪んだかたちで担おうとしている。どこまでが彼女の意志や夢想で、どこまでがネットワーク自体の夢なのかは誰にも判らない。きっと理沙ちゃんにも」
(本書p58〜59より)
構造としては極めてシンプルなSFで、決して突飛なものではありません。個人と都市間とのフィードバックは現実に体感していますし、それがなければ生活することはできません。ただ、そうした日常的な都市のネットワークというものは、普通は特定の個人にイメージに寄りかかるものではなくて、集団的無意識的なものだといえます。それが、個人的無意識によって完全に乗っ取られます。超現実的幻想が、その都市に住む多くの人々の現実を飲み込んでいきます。そうした幻想によって、個々人の現実が崩壊していく有り様や、幻想を押し付けられる暴力的な感覚を表現するための手段として、二人称という特殊な語りが採用されているのだといえます。また、本書は”君”(男)と少年との性行為の場面から始まります。AVにハメ撮りと呼ばれるジャンルがあるように、性行為には一人称視点が求められる傾向が強いです。そうした性行為の場面を最初に持ってくることによって、二人称のノイジーさが強調されています。きわめて巧みな構成です。
さらに、本書の語りは、「第二章 貝殻と僧侶」では”〈彼女〉”、という有性的であるがゆえに無性的な視点からの語りが用いられています。また、「第三章 午前の幽霊」では”僕ら”という一人称複数視点から三人称単数視点になって、そして再び一人称複数視点へといった視点の切り替えが行われています。それは、視点というよりも視野もしくは視界の切り替えといった理解のほうが適切かもしれません。「何を見たか」は「誰が」見るかによって変わってきます。イメージを共有しようとすれば抽象化せざるをえなくて、具象化しようとすると結局は個に還元されてしまいます。そんな幻想と幻視者の関係が語りの妙によって描かれています。
シュルレアリスム小説としてはじまりSF小説として終わるということは、換言すれば、ファンタジーとしてはじまりSFとして終わる、ということになるでしょう。ファンタジーとSFとの境い目とは何かを考えると、科学と魔法の違いについてテッド・チャンの以下の言葉が参考になるかと思われます*1。
わたしの考える魔法と科学の本質的な違いはこういうことだ。魔法の効力は、その行使者に依存する。魔法は、だれでも同じようには使えない。天賦の才を持つ人間にしか使えない魔法もあれば、長年の研究によって魂を清めた人間にしか使えない魔法もある。正しい心を持つ人間にしか使えない魔法もあれば、使う人間の善悪によって違うふうに作用したりもする。
科学では、こういうことはまったく起きない。銅線のコイルに磁石を通せば、あなたが誰だろうと、あるいは心の善悪にかかわらず、電流が流れる。
(S-Fマガジン2008年1月号「テッド・チャン特集」収録『科学と魔法はどう違うか』p46より)
魔法=ファンタジー、科学=SFに置き換えると、都市幻想が理沙個人を原因としたものであれば、それはファンタジーであるといえます。ですが、理沙の存在が確認できなくなりネットワークという概念に落とし込められ、それでもやはりそうした現象が生じるのであれば、それはSFということになります。そうしたジャンル的シフトが行われることによって、幻想が単なる幻想として終わることなく、SFに落とし込まれることで現実的な幻想へと帰着しています。そこには、幻想と現実との緊張関係を読み取ることもできます。繊細にしてしなやかで、優美にして滑稽な機械仕掛けのバレエです。オススメです。
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/11/24
- メディア: 雑誌
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2012-02-06
2012-02-05
■[フジモリ][プチ予想][競馬]きさらぎ賞&東京新聞杯予想
2月ですが、クラシックの足音が聞こえてきました。
■きさらぎ賞
◎ワールドエース
前走若駒Sは勝ち馬にまんまと逃げ切られたが、素質は一級品。外回りになったのはプラス。
今回の勝ち方でクラシック戦線の上位層に食い込めるかが決まる。
■東京新聞杯
◎フレールジャック
ディープインパクト産駒の現3歳世代は先ほど本命にしたワールドエースなどクラシックディスタンスでも走れる馬が多いが、4歳世代はマイラー体質が多い。
近走成績はイマイチだがマイルで化ける可能性があるこの馬を本命に。
ワールドエースの騎乗を蹴ってまでこの馬に乗る福永が、4週連続重賞制覇なるかも楽しみの一つ。




