エクストリーム・聖火リレーを見に行くを見に行く 1

 朝は早く。私の場合、相方と共に朝6時過ぎには準備を終えて競技予定地へと向かう。我々の宿舎から競技場までおおよそ30分。会場となる長野の住宅地・繁華街・官庁街を抜けて行くことになるのだが、この経路の要所要所、相手方応援団が大挙して既に占めている。何故相手方と解るのか?一目瞭然赤い旗。
彼らの数たるや生半端の数でない。野蛮人の血祭りに上げられそうな服装の我々は余計な衝突を避けるため裏道裏道を選んでメイン競技場へ向かう。なんでこの国の国民の俺が・・・。
 長野駅前は既に人集り。裏通りの細い路地からは「赤い旗を持った軍団」しか見えない。
さすがにこれはヤバイ、というかここがどの国か全く解らなくなる。
意を決して駅前に(裏からそっと)突入すると駅と並行して走るメインストリートを挟んでそれぞれの「陣営」が早くもシュプレヒコールを挙げて睨み合い。朝の5時からこんなことをやっているのを除けば、双方案外と規律が保たれいる・・・と思ったら双方それぞれのの前面に警察の壁。双方の陣地関係は駅側が赤勢力、対して善光寺側が「反対」勢力といった感じ。もっとも駅前広場の噴水の辺りなどにはチベットウイグルの旗を掲げた反中勢力も少人数で固まっていたし

一方で赤い国旗を持った連中はどこからともなく続々と集結、この時点で後に思い知らされる「組織力」の決定的違いのを理解する萌芽に。
 我々は赤い旗軍団を避けて道を渡り「反中」側に合流。といっても初めての経験、何をして良いのか戸惑う。とりあえず両手で「雪山獅子旗」を掲げていると「おまえら『FREE TIBET』の声挙げろ!」との声。シュプレヒコールのかけ声を仕切るのは恐らく右翼。何も考えずナショナリズムを鼓舞する今の右翼など尊敬の対象とはならないが、この「志を同じく」する集団にいることで、共に声を挙げずにいられない。そして、この場所で、私は生まれて初めて往来にて主義主張を、実際に声を大にして訴える「FREE TIBET!」

ナショナリズムって? 先に総轄

 その動機は問わない。何らかの思いを持ってとにかくこの場に参加するため集まった日本人は、まず普段お目にかかることのない異常と言える光景を目の当たりにし、今後の人生に大きな影響、或いは影を落とすかもしれない、まず得難い経験をしたと思う。異常な光景の中で一際印象に残る光景、それはやはり聖火を追って次々と現れる中国人達の姿、彼らが持つ赤い国旗で徐々に赤一色に染まっていく日本国の長野県の長野市内の往来、自国の往来を徹底的に不作法に節操なく埋め尽くしていく外国の旗。しかもその国は我が国に危害を加えることを是とする教育を施している国。これの光景を前にして、純粋にチベットを応援することを目的に来た人々も、一瞬以上の恐怖を感じたはずである。その恐怖こそがナショナリズムの萌芽といって良い。今日、この日に何人の日本人が、実際に自分の内にあるナショナリズムという感情を初めて感じたであろうか。中国という国が聖火リレーという行為にどの程度の邪な意味づけを狙っているのかよくわからないが、その中に自国の威を他国に見せつけるという意味が含まれているなら、こと長野に於いてはその戦略は明らかに失敗している。
 さて、心の底奥深くに封印されていた我々のナショナリズムを呼び起こしてくれた「大恩人」である「恐らくは国家の指令によって動員された日本在住の中国人留学生」君達。はっきり言って君らが何を考えてこんな示威行動を行っているのか解らない。純粋に北京五輪を成功させたいがためなのか、国家(共産党)のエリート候補として国費で留学している手前国家の命令を盲目的に聞くことしかできない哀れなロボットなのか、或いは本当に中華思想などというバカげた妄想が脳幹の中心にまでこびりついているのか。確かに狂った指導者達のおかげで第二次大戦の戦勝国にもかかわらず、今に至るまでその半分以上の年数を同士殺し(※当然チベットウイグル内モンゴル等による占領地での虐殺は入りません)に費やしてきたという苦難を背負った連中が、五輪開催国という栄誉を得ることでやっと名実ともに世界の一流国に仲間入りした。その栄誉が世界中でケチ付けられている。腹立つ気持ちはわからンでもないが、「何故ケチ付けられているか」それこそケチ付けている各国が切に望んでいる、自らによる原因究明という姿勢に対して完全に思考停止して、代わって行うのが、これもとても個々が考えているとは言い難い今回長野で見せたような行動。知性・理性を行動への強い動機とする人間にとって、それによる説明が不可能な行動をするモノほど不気味で恐ろしい存在はない。
 思考停止していることにかけては我が国も負けちゃいない。そもそも上が腐っているのは下が何も考えていないからに他ならない。一度芽生えたナショナリズムの芽がどのように成長するか、浅学ながらも歴史を紐解き多少の理解はしているつもりだ。我が国の状況と、長野で見た状況。この結果自らに生まれたのが「ナショナリズム」しかないというのは、ちょっと悲しすぎる。とりあえず今言えること、「ナショナリズムって気持ち悪い」。

 葛飾北斎『八方睨み鳳凰図』

  北冥有魚 其名爲鯤 鯤之大 不知其幾千里也 化而爲鳥 其名爲鵬 鵬之背 不知其幾千里也 怒而飛 其翼若垂天之雲 是鳥也 海運則將徙於南冥 南冥者 天池也・・・

 ここ信濃の地に、南冥のあること初めて知る。鵬の住む天池とは、即ち岩松院なる寺院に当たる。
 小布施の駅を降りて天池に向かう。今日はまことにおかしな天気。雨の降る、雲晴れる、陽隠れてまた雨の降るの繰り返し、まことに行動するのに不便な陽気であるが、鯤より変じた鵬を見に行くには或いは相応しい日和と言えなくもない。
 鵬は何処から生まれ出ずるや。荘子に従えば巨大な魚の変ずることで鵬とならんと。西洋に伝わる不死鳥は、火より生じその命数の尽きたるを悟れば自らを火に投じ、その炎より再び転生せんとのこと。眼一つに係わらず、その名の通り周囲八方を睥睨する感、鵬のその身は何処に有りなん。その身は地にあらず宙にあらず天にもあらず、当に今まで揺籃された仮の身よりこの世界に生まれ出たその瞬時、変生の後跡を窮屈に身に残し、まさにこれから果てしなく広がる鵬の身体、この時ばかりは蜩與學鳩もその姿を可視せん。
 さて、この鵬を眺むる席、何れの位置に取ればよいのか、その何れの位置にありても鵬の持つ眼力の容赦するを知らず。眼光の後より観者に降り注ぐ都合十尾の尾羽、それぞれに異なる色光を帯びて、これもまた容赦なく観者に降り注ぐ。世に身の収むる場所なき鵬の身より、地にありて眺める観者への果てしなき色光の乱舞、いずれ観者の身をも、或いは一瞬、或いは永久に、自らの場に引き上げ容易に地に戻すことを拒むの力、目と羽に宿すなり。
 静寂にありて揺動、天地を揺るがすかのような彩光、ここはまさしく南冥なり。