科学・政策と社会ニュースクリップ

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特殊と普遍〜「小保方特殊論」を超えて

 普段は1週間に一度しか更新しないこのブログも、連日のように更新しています。これもSTAP細胞の問題があるからです。私(榎木)への取材申し込みも殺到しており(東大医科研の上先生ほどではありませんが)、現在までに朝日新聞毎日新聞産経新聞夕刊フジサンデー毎日、フライデー、週刊新潮読売テレビテレビ大阪(一部テレビ東京でも放映)、TBS、日本テレビ等から取材を受けました(一部取材を受けたものの掲載されていない媒体もあります)。

 タブロイド紙も含めこうした取材を受けることは、この問題をいわばネタとして消費する状況に加担しているのではないかとの迷いもあります。しかし、私たちがもう20年ちかく問題にしてきた若手研究者を中心とする研究者のおかれた状況に世の中の注目が集まる貴重な機会であると思い、おおむね断らずに取材を受けています。

 小保方博士一人の問題を、ポスドク問題をはじめとする若手研究者の問題にまで拡大解釈してよいのか、N=1から一般論を論じてよいのか、という批判もあるかと思います。

 その点は注意しなければならないところではあると思いますし、自覚しないといけないと思います。


 「小保方さんはちょっと普通の人とは違う」ので、こうした問題が起きた、という話にしてしまえば、話は楽だし、小保方博士一人を排除してしまえば解決ということになります。こんな事件はそうめったに起きるものではないので、「小保方特殊論」ですまそうという誘惑にかられる人も多いのではないかと想像します(実際そういう声を多く耳にします)。

 たとえ同じ環境に置かれたとしても、多くの研究者は不正などしないのは事実です。

 けれど、N=1、「小保方博士は特殊」ですませられない、構造の問題は大きいと思っています。

 それには理由がいくつかあります。

 研究不正というのは、昔から世界各地で起こっている問題です。再生医療の分野では、韓国のファンウソク博士の事件が記憶に新しいですし、何といっても、2年前の森口尚史博士の事件がありました。決して小保方博士だけの問題ではありません。

 また、論文の共著者の責任問題は、「ギフトオーサーシップ」問題として、かねてから問題視されていたことです。

 論文のコピーペースト問題は、小保方博士の所属ラボ、所属研究科に広がり、また、画像の盗用の問題は、バカンティ博士にまで広がっています。小保方博士一人の問題ではなくなっています。

 そして、理研および本人の口から「未熟」であったという言葉が出ている以上、未熟な人が教育されなかったこと、あるいはたとえ教育が無理としても、なぜ気づかれなかったのか、ということは考えなければなりません。

 予算獲得やポジション獲得のための競争的環境が与えた影響はどうなのか、という疑問も生じています。

 問題が発生したときの対応を含めた理研のガバナンスの問題にも、大きな疑問が呈されています。理研の問題点は、この事件に留まらない、日本の研究機関の在り方の問題を提起していると思います。

 理化学研究所は、2010年の事業仕分け第2弾で、「ガバナンスに大きな問題、国を含めた研究実施体制のあり方について抜本的見直し」との指摘を受けています。果たしてこの指摘に向き合ってきたのか、ということが問われています。

 諸外国からは、あるいは、科学者コミュニティ以外からは、日本の博士号取得者の能力に疑念が生じかねない、日本の研究体制が懐疑的な目でみられかねないのではないかと思います。N=1、小保方博士個人の問題であるとするならば、ほかには問題がないことを示さなければなりません。


 これだけ社会問題化してしまっているわけで、N=1ではない広がりが、この事件にはあると思いますし、また、たとえN=1でも、科学コミュニティ、そして社会に与える影響は大きいのは事実で(もちろん、クリミア半島問題等の重要課題と比較してどうか、という問題はありますが)、徹底検証が必要だと思います。


 日本の研究者育成システムや、研究機関が、一般の人々や諸外国から、懐疑的な目でみられている状況のなか、「他人事」ではなく「自分事」として考えることが求められているように思います。

 ハインリッヒの法則では、「1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する」と言われています。

 私たち医師や医療関係者は、重大事故を防ぐために、「インシデントレポート」「ヒヤリハットレポート」を書きます。自分が起こしたミスを報告し、その原因や解決策を考えます。

 これと同じで、今回のようなケースでも、一例一例を徹底検証することが求められているように思っています。

 かつて東大理学部生物学科(動物学)にいたときに、「特殊から普遍を考える」ということを教わりました。

生物科学には、生化学、分子生物学、生理学、生態学等のように、方法論に基づいて分類された分野が多数にある。それらは何れも、生命現象を解明するのにどのような角度で切り込むかの態度を代表している。したがって、具体的な生命現象、例えば鳥が飛ぶ、蝉が鳴くといった生命現象があって、初めて生物科学の諸分野は意味をもつ。言い換えれば、まずどのような生命現象をおもしろいと思うかが生命科学を学ぶ出発点である。動物学課程で行う学部教育では、何よりもこのことを重要と考え、できるだけ多様な生命現象を紹介し、その理解へ導くことを最大の目的としている。そして、このとき強調されるのは、生命現象が多重構造からなるという事実である。大腸菌からヒトまで、すべてを貫く普遍性生命現象がある一方で、特定の生物群や生物種だけがもつ特異的生命現象も存在し、どちらへの理解が欠けても、真の生命科学は成り立たないからである。

(進学のためのガイダンス 東京大学 平成11年度より)

 今回の事件も、特異的な部分と普遍的な部分があるように思います。過度な一般化は戒めるべきですが、特殊論に逃げない姿勢が科学コミュニティに求められているように思います。