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2010-03-24

現代心理学が垂れ流す害毒/『続 ものぐさ精神分析』岸田秀

 岸田の理論は高い視点から文明や歴史を分析している。このため、臨床心理学とは異なる次元になっていて、「デタラメな絵を描いているだけじゃないのか?」という思いがよぎる。しかしそうではない。なぜなら、心理学自体が「絵を描く」ことに過ぎないからだ。カウンセリングとは、本人が思ってもいない角度から因果関係を構成し直す作業といえる。


 つまり、「物語」に脚色を施し、効果音を挿入し、BGMを流し、ナレーションによって意味を変質させているわけだ。効果があれば、悲劇は喜劇へと転じる。


 アリストテレスが「人はポリス的な動物である」と定義しているが、ポリスとは社会的、政治的、共同体的という意味合いである。ま、「群れ」といってもよい。人はたむろし、群れる。


 社会といっても政治といっても、結局のところ役割分担と上下関係で構成される。そして差別化が自我を強化する。自我とは、分断され孤立化した「私」のことだ。社会がサッカーチームの如く完全に一体化していれば、そこに自我が生まれる余地はない。存在するのはボールを追う一つのチームだけと化す。


 我々が「物語」を必要とするのは、差別化を解消するためである。今置かれた自分の位置で成功物語を綴らなければ、生きている価値がない。何らかの成功を手に入れられないと、自分という存在は重みを失い、更には透明化してしまう。自己実現こそ至上命題である。


「物語」の主人公は自分であるがゆえに、この「自分」が他の誰かから必要にされなくてはならない。リストラが心理的ダメージを与えるのは、自分が「いてもいなくてもいい存在」になってしまうためだ。それは、社会から不要とされたことを意味する。本当はそうじゃないんだが、そういう物語をつくってしまうところに「社会的動物」の所以(ゆえん)がある。で、首を切られた男に帰る場所はない。家族からはとっくの昔に見捨てられているからだ(笑)。


 価値観というのは人の数だけある。仮に同じ思想や宗教を信じていたとしても、完全に一致することはあり得ない。人それぞれに微妙に異なるものだ。もっと根本的なことを言えば、「言葉の意味」すら一致することはない。言葉は最大公約数であり、妥協案であり、折衷(せっちゅう)主義である。


 ここに勘違いが生まれ、行き違いが生じ、齟齬(そご)をきたす原因がある。そして人間関係というのは力関係が基軸になっているため、力の加減によっては相手に極度のストレスを与えてしまう。


 例えば核家族化が進み、子供が親の管理下に置かれ、塾や習い事漬けにされた昭和40年前後の世代は、突如として校内暴力、家庭内暴力の牙を剥(む)いた。私の世代である。北海道の中学で一番最初に新聞紙面を飾った校内暴力は、私の友達が起こしたものだった。


 幼い頃から教育、しつけという名の「柔らかな暴力」にさらされると、その反動は必ず明快な暴力となって現れる。比較的最近の「キレる子供達」というのも同様であろう。


 現代心理学の思想はいろいろなところに害毒を流しているようであるが、現代の母親たちも、知らず知らずのうちにその害毒に冒されてしまっているようである。

 現代心理学の思想とは、一言にして言えば、人間を、ある刺激を与えればある反応をする一つの条件反応体と見る思想である。もちろん、この思想は、心理学に特有のものではなく、大きな思想的流れの一支流が心理学にも姿を見せているというのに過ぎないが、心理学はそれを「科学的に」証明しようとしているだけに、いいかえれば、心理学は一般に「科学」と見なされているだけに、その悪影響は恐ろしい。


【『続 ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、1982年/『二番煎じ ものぐさ精神分析』青土社、1978年と『出がらし ものぐさ精神分析』青土社、1980年で構成)以下同】


 岸田は「パブロフの犬」以降、こうした傾向が顕著になったと指摘している。条件づけ、刷り込み、マインドコントロールなどに共通するのは、「人間を操る」という発想である。実は、ここに権力というメカニズムの本質もある。権力者が求めているのは、奴隷あるいはロボットとしての大衆だ。


 我が子のためによかれと思ってやっていることが、実は虐待だったりすることもある。子供の意志が無視されれば、そこに抑圧が生まれる。「抑圧された」ということは、「暴力を振るわれた」ことに等しい。子供は抑圧されるほど攻撃性が高まる。


 そもそも心理学を鵜呑みにした時点で、親は心理学にコントロールされていることになるのだ。コントロールの連鎖が生まれるのは必定である。


 更に岸田は重大な指摘を加える──


 親の意識的な意図より無意識的な態度に子どもは敏感である。親の人格の意識的部分と無意識的部分に対立と分裂がある場合、往々にして子どもがその皺寄せを受ける。たとえば、まじめで小心で善良な両親に非行少年の息子がいたりするが、こういう場合、息子は親の無意識的期待に沿っているのかもしれないのである。この親は、内心では世間に不当に虐待されていると感じていて恨みを懐いており、復讐したいのだが、それでは社会的に不適応になるので、そうした傾向を深く無意識へと抑圧し、意識的には卑屈と言えるほど小心な生活を送っている。この親は、息子に対して、口ではまじめに生きてゆかねばならないと説教し、息子の不行跡を叱るが、息子が世間に迷惑をかけることを仕出かしたときにふと見せる歓びの表情を息子は見逃さず、非行を重ねているうちは親の愛情を失うことはないことを知るのである。こういう人格分裂を抱えた親が意識的にどれほど子どもを「清く正しく」育てようとしても、だめなのだ。どれほど子どもの非行をきつく叱り、折檻しても、だめなのだ。子どもにとっては、親の口先だけの叱責や折檻よりも、親の本当の是認と愛情を失う方がはるかに恐いのである。


 これは何となくわかる。例えば、いじめっ子の親が我が子の問題を話す時、ほぼ100%の親が笑顔で語る。一方、いじめ被害に遭っている児童の親が笑顔で打ち明けることはない。


 大体、子供の問題というのは、芽が小さいうちにきちんと対処しておけば解決できるものが多く、親による放置、不作為が問題を大きくしている側面がある。例えば私に子供がいて、強姦事件を起こしたとしよう。私は躊躇(ちゅうちょ)することなく息子を撲殺する。その程度の覚悟が親になければ、子供を育てることはできないだろう。


 人は嘘をつける動物であり、嘘をつけない動物でもある。幼い生命は大人の嘘と真実からこの世のルールを学んでゆくしかない。言いわけは後の祭りだ。子供に向って「俺を見ろ!」と言い切れるかどうかである。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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