古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

宗教とは何か?

 脳科学から見た宗教現象といった内容。決して宗教を攻撃する主張ではなく、信仰者に対して新たな視点を提示し、健全な懐疑を促しているように感じた。

 アナロジーとは以下の通り──

 ギリシア語アナロギアanalogia(〈比〉)に由来する語で,〈類推〉〈類比〉〈比論〉などと訳される。複数の事物間に共通ないし並行する性質や関係があること,またそのような想定下に行う推論(類推)。

コトバンク

 敷衍(ふえん)すれば、類型化(カテゴライズ)、定型化(ステレオタイプ)、象徴化(シンボル)、帰納法、置き換え、比喩と辿ることができよう。ここに「物語の誕生」があると思われる。

 養老孟司はなぜ脳にアナロジーが生じる理由を考察する──

 さて、それではヒトの脳になぜアナロジーが生じるか。それはヒトの脳に剰余つまり余分が生じたためである。動物が生理的に必要な行動をしている間は、脳は必要であっても、その脳を動かすためには、環境からの特定の刺激が必要である。ヒトではなぜか脳に余分ができてしまったために、環境からの刺激だけではなく、ヒトの脳内活動そのものが、脳の活動を引き起こす刺激に変化したらしい。ところが脳内の回路は、ヒトも動物の場合と本質的には変わらない構築をしているはずで、量だけ多いわけだから、「類比」すなわちアナロジーなる機能が発生するのである。つまり、ネコであれば、サカナの臭いという具体的刺激が、食物を手に入れようとする行動の動機になり得るが、ヒトなら、金が儲かりそうだという思考もまた、その臭いの「代用」になり得る。「金が儲かりそうだという考え」が、動物の場合のさまざまな生理的刺激の「代用」なのである。ということは、脳内にはネコがサカナの臭いをかいだときに近い回路が動いているはずで、それが「代用刺激」で発動してしまうのである。そうした回路機能を私はアナロジーと呼んだのである。つまりネコがサカナに近よって行くというのと、ヒトが金のある方に近よっていくというのは、生理学的に確認をしなければ確実ではないが、よく似た回路のはずなのである。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年ちくま学芸文庫、2002年)以下同】

 これは凄い。脳の剰余がアナロジーを生んでいるとすれば、我々の脳は大き過ぎる進化を遂げてしまったのだろう。類比は自然の摂理に何の影響も与えない。ということは、アナロジーという機能は、人間社会でのみ意味を持つことになる。あ、わかった。ヒエラルキーもここから生まれているってわけだ。

 我々が気にしてやまない出身地、氏素性(うじすじょう)、学歴、勤務先、年収などは、いずれもアナロジーに由来していることがわかる。カテゴリー化。拭えない村意識。

 しかし、である。脳の発達が進化的に有利であったならば、ヒトはアナロジーを最大限に生かして共同幻想を構築せざるを得ない運命にあるのかもしれない。

 そう考えると、ヒトの進化の過程で、もし抽象化ということが最初に起こったとすると、それは死を巡ってではないかと思われるのである。抽象化というのは、言い換えればシンボル能力である。十分なシンボル能力はまだ無かったとはいえ、その萌芽はすでにネアンデルタール人にあらわれているのではないか。だから抽象化能力あるいはシンボル能力の具体的な入口は、じつは「死」だったのではないか。なぜなら、死とは前述のように、抽象的であって具体的であるからである。具体と抽象をつなぐ性質を、死はいわば「具体的に」そなえている。自己の死と他人の死を巡って、ヒトのシンボル能力発現の最初の契機をそのまま素直に発展させたもの、それこそが宗教ではないのか。
 もちろんその後、宗教は進化する。したがって最初の契機についての意識は、ほとんど宗教から失われているのかもしれないのである。だからいまの宗教を考えたのでは、発生時の事情はかえってわからない可能性すらある。話が飛ぶようだが、言語をわれわれは既成のものとして利用している。だから言語がいかに発生したかについては、ほとんど意識が無い。というより、どう考えたらいいか、よくわからないらしい。

 強烈なワンツーパンチだ。元始の人類が死を目の当たりにした時、どのような感慨を抱いたであろうか? いや、感慨という見方そのものが既に私の先入観となってしまっている。「あれ? 動かなくなった」──と、まあ、そんな単純なものだったことだろう。動くおもちゃが壊れた時の幼児と変わりがない。

 ところが老いた者や病んだ者が同じように動かなくなってゆく。それに気づいた瞬間、あり余った脳がバチバチと火花を散らしてシナプスが新しいネットワークを構築する。「ジイサン動かない」「バアサン動かない」=死という方程式の完成だ。

 これが凄いのは、人類にとって最初のアナロジーが死であったとすれば、生という概念は後から生まれたことになる。生老病死(しょうろうびょうし)と聞くと、我々は何となく最初に「生」をイメージするが、アナロジー的観点から言えば、やはり老病死の方が明らかに共通性を見出しやすい。

「人は死んだ。その頃、まだ生はなかった」──多分そんな時代があったに違いない。そして、死によって逆照射された「生」に思い至った時、人間は苦悩に取りつかれることになったのだ。

 ヒトは進化の過程で脳が大きくなり、アナロジーが発生したため、何を現実とするかが、個人によって違うという状況になってしまった。カッシーラーのいう意味でのシンボルは、それはいわば「統制」するために発生したのであろう。たとえば言語は、その中で表現できないものを存在しないとするまでになる。西欧の言語にそういう性質があることは、よく知られている。「ことばで言えないことは存在しない」と見なされるのである。しかも、「統制」はつねに「強制」であるから、どのような文化でも、言語は教育によって強制されるのである。
 では宗教はなにを「統制」するのか。それはおそらく「生死観」であろう。生死はもとから存在するのだからシンボル化の必要はない、そうはいかないのである。なぜなら、すでに述べたように、自己の死は現実化、具体化できないからである。他人の死と自己の死の隙間から宗教が発生する。こうしてヒトは、シンボルを利用し、ともかく世界を整合的に理解しようとする。しかし、それはじつは自分の頭の中を整合的にしようとしているだけであって、その結果、外の世界が整合的になるわけではない。宗教には典型的にそれが出ている。宗教が現世と対立的に捕えられるのは、そのためであろう。いくら宗教が生死観を判然とさせたからといって、ヒトが死ななくなるものではない。だから来世を説く。現世はこちらの世界だが、宗教は徹底的に内的な世界である。ということは、脳内の世界ということであり、生物学的にいえば、もっとも進化した世界の一つということになろうか。

 養老唯脳論と岸田唯幻論は見事に補完し合っている。概念や因果関係を捨象し、「機能」という一点から見つめているだけにわかりやすい。「新しいプラグマティズム」といっても過言ではないだろう。

 人々に安心を与えてきたのも宗教であれば、人々を争いに駆り立てたのもまた宗教であった。思想や宗教が人間にとってのOS(オペレーティングシステム)であれば、限りないバージョンアップが可能なはずだ。

 確立された古い教義は過去のものである。脳のあり余る能力はそれをよしとしないことだろう。斬新かつ革命的なアナロジーが必要だ。