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2010-10-19

組織化された殺人が戦争である/『最後の日記』J・クリシュナムルティ

    • 組織化された殺人が戦争である

 クリシュナムルティを初めてひもといたのは、昨年の10月20日のことだった。この1年間で関連書も含めると41冊読んできた。翻訳書はあと10冊前後しかないはずだ。四十半ばを過ぎて、よもやこれほどの衝撃に遭遇するとは思わなかった。


 本書はクリシュナムルティが亡くなる2年前までソニー製のウォークマンで録音されたとのこと。テキストとまったく遜色のない出来映えとなっている。『生と覚醒のコメンタリー』同様、初めに美しい風景描写が配され、個人的な面談の内容を紹介している。


 彼の教えが難解に受け止められるのは、一切の価値観と言葉とを相対化しているためだ。逆もまた真なり、である。理想と現実、建前と本音、理性と感情。言行不一致、二枚舌、ダブルスタンダード。我が子には人の道を説き、会社では同僚を蹴落としているのが我々大人である。「お母さんを大切に」と言って戦地に向かう父親は、敵国の母親を平然と殺戮するのだ。


 河のそばに樹があって、われわれは日が昇るとき、数週間も毎日それを眺めていた。地平線の上に、樹を越えて日がゆっくり昇るにつれて、くだんの樹は突然、金色になる。あらゆる木の葉がいのちで生き生きとし、それを見守っていると、時間が経つにつれて、名称などどうでもよいその樹――大事なのはその美しい樹なのだ――その途方もない本質は、地上いっぱいに河を覆って広がるように見える。日が少し高く昇ると、葉はひらひらと揺れ踊りはじめる。そして1時間ごとにその樹の質は変わってゆくように見える。日の昇る前は、くすんだ感じで、静かで遠く、威厳に満ちている。そして一日がはじまると、木の葉は光を浴びて踊りだし、偉大な美のあの特別な感じを持つのだ。日中までにその影は深まり、そこに坐って、太陽から護られ、決して淋しさを覚えることもなく、その樹を友としていることができる。そこに坐れば、樹だけが知ることのできる、深く根づいた安泰と自由の関係がある。

 夕刻に向けて、西空が沈みゆく日の光を受ける頃、その樹はしだいにくすみはじめ、暗くなり、それ自体の中に閉じこもってしまう。空は赤、黄、緑と変わるが、樹は静まり、隠れ、夜の眠りに入る。

 もしその樹と関係を持てば、人間との関係も持てるだろう。そのとき、その樹に責任を感じ、世界中の樹に責任を感ずるだろう。しかし、もしこの地上の生きものとの関係をもたないなら、人間とのあらゆる関係も失われるだろう。われわれは決して樹の本質を深く掘り下げて見ない。われわれは決してほんとうにそれに触れ、その固さとその荒い樹皮を感じ、樹の一部であるそのひびきを聴かないのである。木の葉を通り抜ける風の音でも、木の葉を揺るがす麻の微風でもなく、それ自体のひびき、樹の幹のひびき、樹の幹の沈黙したひびきである。そのひびきを聴きとるには、途方もなく敏感でなくてはならない。このひびきは、この世の騒音でも、心のざわめきでも、人間の争い、人間の戦いの野卑さでもなく、宇宙の一部としてのひびきである。

 われわれが、自然や、昆虫や、跳びはねる蛙や、友を呼んで岡の間に啼くフクロウなどとの関係をほとんど持たないのは奇妙なことである。地上のあらゆる生物に対し、何らかの感情を持つようには決して見えないのだ。もしわれわれが自然と深く根づいた関係に入ることができるなら、食べるために動物を殺したりは決してしないだろうし、猿や犬やモルモットを自分たちの利益のために損なったり、生体解剖したりは決してしないだろう。われわれの傷や身体を癒す別の方法を見つけるだろう。しかし、心の癒しは何か全く別のものである。もしわれわれが自然とともにいるなら、樹の上のオレンジと、コンクリートを突き抜ける草の葉と、雲に覆われ、隠された丘陵とともにいるなら、その癒しは徐々に起こってくるのである。

 これは感傷でもロマンティックな空想でもなく、地上に生き、動きまわるあらゆるものとの関係の実態である。人間は幾百万の鯨を殺し、いまだに殺しつづけている。それらを殺すことによって得られるあらゆるものは、他の方法でも手に入れられるのだ。しかし、明らかに人間は生きるものを殺すことを、逃げる鹿、素晴らしいカモシカ、巨象を殺すことを好む。お互いを殺すことも好んでいる。他の人間を殺すことは、この地上の人間の生の歴史を通じて止んだことがない。もしわれわれが、自然や現実の樹木や藪や花や草、そして流れる雲と深く長い関係を持つことができるなら、またそうでなくてはならないのだが、どんな理由があろうとも他の人間を殺すことは決してしなくなるだろう。

 組織化された殺人が戦争である。われわれは特殊な戦争、核や何かの戦争のデモはしても、戦争反対のデモは決してしない。われわれは、他の人間を殺すのはこの世界の最大の罪悪だとは決して言ったことがない。〈1983年2月25日(金)〉


【『最後の日記』J・クリシュナムルティ/高橋重敏訳(平河出版社、1992年)】


「樹と関係をもつ」とはどういうことか?

 葉を見つめ、枝を見つめ、幹を見つめ、根を見つめ、木と大地の関係を見つめ、太陽の光と雨を見つめ、空気をも見つめる。そこに初めて「存在としての木」が立ち現れるのだろう。


 眼が剥き出しになった脳である(リチャード・E・シトーウィック)とすれば、全身全霊を傾けた観察は「見る者」と「見られるもの」との差異を消失させ、見る者は即見られるものと化す。これがクリシュナムルティ流の縁起なのだ。


 ここに見られる関係性は、通常の「関わり合い」といった次元ではなく、存在の本質を問うものである。すなわち、太郎から見た花子の関係&花子から見た太郎との関係ではなく、二人が関係性そのものとなることを意味している。引き合う磁石ではなく磁力そのもの。


 果たしてそんなことが実際に可能であろうか? クリシュナムルティは可能だと教えている。「見る」ことによって。


 我々は世界をそのように見ない。だから分断が生まれる。あれとこれ、甲と乙、赤と黒、美と醜。人間が人間を差別するのも分断に原因がある。


 社会は分断された階級構造となっている。貧富の差、社長と平社員、カースト制度。そしてあらゆる集団・組織は命令する者と命令される者とで構成されている。


 組織の理想形は軍隊である。命令一下、戦略は速やかに実行される。疑問を差し挟めば殴られる。暴力装置を支配しているのは暴力なのだ。二等兵が力を合わせて鬼軍曹を袋叩きにすることはない。


「組織化された殺人が戦争である」──とすると我々が生きる社会には、組織化された殺人を志向する暴力性が潜んでいるのだろう。いや蔓延しているのかもしれない。


 年老いた政治家が戦争を決め、罪もない若者たちが戦地へと送り込まれる。国民は戦争という名のゲームにおいては駒(こま)でしかない。オセロの駒は何度でもひっくり返せるが、死地へ追いやられた人々が生き返ることはない。


 版図を拡大するためとあらば少々の犠牲はやむを得ない。これが政治の本質だ。つまり政治は形を変えた暴力なのだ。


 国益という言葉を聞いて何とも思わないようだと危ない。元を質(ただ)せば地域益であり、企業益であり、家族益であり、つまりは個人的利益に基づいているからだ。


 日本人が食えるなら、よその国民が餓死しようと一向に構わない。これが我々の国政である。無残極まりない。

最後の日記


おまけ


 我々がいかにものを見ていないかを証明しよう。マッテオ・モッテルリーニが『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』で紹介した注意力の欠如に関する実験だ。


【問題】以下の動画を観て、白チームのパス回数を答えなさい。



【答え】ドラッグして反転させよ→途中でゴリラが登場したことに気づきましたか? 人は注意を払ったものしか見えない。

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