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2011-08-23

永パ、あるいはゲーム等の世界ランキングとその公正さの話 永パ、あるいはゲーム等の世界ランキングとその公正さの話を含むブックマーク 永パ、あるいはゲーム等の世界ランキングとその公正さの話のブックマークコメント

http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20110617#p1

http://togetter.com/li/178467


ここらへん前提。

仮想敵は以下

ゲーセンスコア文化とか80年代の話なので古い」

世界ランキングとか自分には関係ないのでどうでもいい


まず、リンク先のやねうらおさんの話は体験ベースで書かれているので、古いといったらそりゃ古いし、ゲーセン文化やいちプレイヤー(スコアラー)視点との複合として書かれているので、挙げられているアプリゲーあたりも含めたゲームプログラム全般に「であるから永パは忌むべきものであり肝に銘ずるべし」とするには無理がある部分はある。


自分としては「世界ランキングは公正であるべき」という話として読んだ。そこからは抜粋のほうにだいたい書いた。世界ランキングソーシャルな要素は非常に現代的な問題だし、そこでランキングがうまく機能する場面は確実にあると思っている。

多少補足すると、「実機とTASレベルのレギュレーションの違いが生じる「世界ランキング」は望ましくない」というのは混在するのがよくない、という意味。それなりにプレイして自分なりのプレイができるようになったゲームにおいて、なんらかの手段で「攻略法」を知った時、それが自分のプレイとまったくかけ離れているのと、技術や発想はともかく「地続き」と感じられるのだと後者が良いよね、といった感覚的なものではある。


少し話を広げて、たまに自分がよくする話として

野球好きの少年(あるいはオッサン)がイチローの好プレー集を見たらおおむね『すげー』っていう感想が出る。ビデオゲームの好プレー集になると『こんなことはできない』『難しすぎる』『ゲームとしてダメ』といった感想が割と出る。なんで違うのか。」

というのがあって、これは「見て楽しむことと実際にやることが分離できないのは残念*1」といったニュアンスで言っているんだけれども、それだけ「ビデオゲーム」というのは万人に開かれている、といった見方もできる。「難しすぎる」と口をついてしまう彼らは、ある程度の経験、知識を有しており、自分がプレイする、していることを想像できるがゆえに、そういったコメントをしてしまう、つまり潜在的なプレイヤーである、といった表現もできなくはない。


さて、ここで世界ランキング、あるいはオンライン、ソーシャルなランキングの話に戻るのだが、「自分と全国一位のプレイ」を直接対比してしまうと、上記のようなコメントが出るのもわからなくはない。だがここに世界ランキング、あるいはローカルな関係におけるランキングがあると、また違った動きを見せるだろう。週に一回知人と何かゲームをやるとして、そのゲームの「全国一位が活用するテクニック」を解説した動画があれば、そこからいくらかでも何かを吸収しようとするだろう。そういったものが、昨今のゲームにおけるランキング、オンライン、ソーシャルといった要素が生きてくる場面であろうと思う。


ただし、である。その動画がもし「システムの穴をついて本来のプレイとはまったく異なるプレイをする」といったものだったら、そうはならないだろう。まあこの「本来のプレイとは〜」という表現もかなり曖昧なもの*2なのだが、ここではそう表現する。例え話をするならば、マリオカートタイムアタックショートカットや加速手段は「テクニック」として許容範囲だが、ライン上の壁に当たって周回を誤認識させるのは許容できない、といったような。


そして冒頭で槍玉にあがった「永パ」というのは「許容できない」に属するケースが多いのではないか、と自分は思う。もちろんやねうらおさんが解説するように永パにも種類があり様々なケースがあるのであるが、大体の場合それは「興を削ぐ」ということになるし、一般的なプレイからもかけ離れたものになる可能性が高い*3。そういった意味で、「永パ滅ぶべし」に正しさはあると思うのだ。

*1:そもそも「何が難しく何が簡単か」というのはある程度の知識や経験がないと把握できない、みたいな話もある

*2格闘ゲーム裁定レギュレーションなんかが参考になるだろう。そしてネトゲのやって良い悪い問題とかになるとまず泥沼になる。

*3:そもそも一般的なプレイヤーのモチベーションとなる"競争"という部分が破壊される

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2011-08-19

ゲハの話をした ゲハの話をしたを含むブックマーク ゲハの話をしたのブックマークコメント

平林久和さんの文章を受けて、みたいな話。

http://www.voiceblog.jp/setofuumi/1498164.html

おおむねメインは前半で終わって2/3はゲームのダベり。

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2011-06-08

呼称としての氏について 呼称としての氏についてを含むブックマーク 呼称としての氏についてのブックマークコメント

参照 http://twilog.org/tweets.cgi?id=setofuumi&word=%E6%B0%8F

まあ基本的にはオタク方面*1の用法を真面目に使うとむずむずしますね、というところがあったりするのだが、そこだけではなくて「インターネットで何かしらを書いている人に対する一般的な呼称」として用いられてるのがなんだか違和感ある、という話。

これは多分少しだけ実名匿名論争とも絡んでいて、俺の中で「パブリックな"氏"の用法」というのは何らかの肩書きとか責任を負っている場合に限られる、という感じ。

例えばtwitterなら津田って人*2という有名な人がいるけれども、彼が仕事(ジャーナリスト)として活動している分野や、それに関連する活動、postへの反応として「津田氏」と呼称するならわかるんだけど、どうでもいい日常的なpostや専門外のことへの単純な感想を挙げる場合は「津田さん」「津田って人」の方が適正だと思っている。

もっと言うと、実名を出していなくとも職業や立場を明確にしている人の、その分野への言及なら「〜〜氏」でいいと思うし、逆にある程度有名でも特に文責とかなしに「ニュースを見たり新聞社説を読んで適当に一言コメントする人」*3に対して「〜〜氏」と言ってしまうとちょっとばかり違和感がある。

まあ「社説を読んで一言コメントする」のならワイドショーのコメンテーターという前例があるのでわからんではないんだけれども、特にそういう類似なしにインターネットで適当なコメントをしているだけの人を「〜〜氏」と呼んでしまうと違和感があるし、おもしろおかしいことやどうでもいいことを書いている人にならなおさら、という話でした。

*1:最近だとSteins;Gateで音声として聞けた

*2http://twitter.com/#!/tsuda

*3:ここはまあテレビでコメンテーターという職業が成立しているのでネットでも成立する、という立場なら理解は出来るが

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2011-06-07

ゲームとコミュニケーションの話 ゲームとコミュニケーションの話を含むブックマーク ゲームとコミュニケーションの話のブックマークコメント

直近だとこれとか

http://togetter.com/li/144177

まあ古来より「なんでもゲーム」「なんでもコミュニケーション」と喝破してしまう人は多くいて「おれ死にてえのかなあ」*1で終わるのが伝統であるというのは既に常識ですが、そ

れはともかく、そこらへんのことについて今のところ頭の中にあることを抜粋。

ここらへんでまず言及されるとしたらいわゆるケータイゲームとモンハンなんだけれども、これを他のビデオゲームと比べるとちょっと話が変わってくると思っていて(その比較自体は悪くないのだが)、本当に「ゲームとコミュニケーション」という視点から切り込むなら比較するべきはオッサンのゴルフであり大学生の麻雀であり中高校生のボーリング(古い。かつての、くらいのニュアンス)であると思っている。

だいたい「ゲームの話」というのは基本的に楽しいものであり、学校の教室で攻略知識を共有したり友人の家で一緒にやったりというのがFC時代を回想して古きよきゲーミングと言われたりもしているわけで、そんなのは楽しいに決まっている。もっと言えば、今現在のニコニコ動画等のゲーム動画は、最新作、スーパープレイだけでなく「どうしようもないゲームをクリアするプレイ(およびTAS,TAP)」であるとか、「どうしようないバランスの格闘ゲームの大会を開きそれを実況する」とかが普通に愉快なコンテンツとして流通しているのであり、「コミュニケーション要素をうまく導入したので良ゲー」と呼んでしまうと味噌も糞も一緒になった話にしかならない。そういう話をする自由はあるけど自分はあんまり歓迎しない(それを"ゲームの話"としてすることは)。


で、麻雀やゴルフと比較して、なおかつビデオゲームとしてのあれこれを語るとしたら「いわゆるCo-opというものは一体何なのか」「それに付随するものとしてのシングルプレイ」といったような視点、そしてさらにそれらが「携帯ゲーム機」の上で機能している、というところを見ていかないとゲームの話にはならないな、と思っている。

自分はpspおよびDS初期中期のソフトのこととなるとまったくわからないし、Xbox、360の出始めた頃の話となるともっとわからないので、そこらへんのゲームにおけるCo-opはどういうものとして存在しどう変遷していったかが語られたらすごくいいなあ、と思っているのだが、あんまりそういう話は見かけないので残念だなあ、くらいに思っている。

さらに言うと、Co-opだけでなくローカルランキングあるいは世界ランキングの表示というのが昨今のゲームには付き物であるし、動画サイトの普及で「スーパープレイ」やTASによる理論上の最高のプレイ、あるいはRTA、さらにさらに凡庸な一般的なプレイといったものに触れやすくなったし、据え置き機なら「リプレイダウンロード*2」というのも相当メジャーになっているはずなのでそこらへんからのアプローチも欲しい、と思っている。

*1http://www.poetry.ne.jp/zamboa_ex/tanikawa/6.html

*2:自分が最近プレイしたCoDBO、スパ4といった360のゲームはどちらもそれらの機能が相当充実している

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2011-04-18

音ゲーの話をしたときの内容の文章化をする 音ゲーの話をしたときの内容の文章化をするを含むブックマーク 音ゲーの話をしたときの内容の文章化をするのブックマークコメント

http://www.ustream.tv/recorded/13224942

で話したがやっぱりぐだぐだで何を言いたいのかわからない感じだったので改めて色々書き出す。はっきりと主張したい内容があるわけではないので本当に文章化するだけ。


自分の体験、プレイヤーとしてのスペックDDRDanceEvolutionをそれなりにやった。他の音ゲーは適当、といった感じ。基本的にDDRとダンエボの対比になります。


DDR

  • まあ15年くらい続いてるので色々ありましたね
  • 「傍目に見てなんか変だ」という問題は常にセットになっていた。
    • 他者の目を意識したパフォーマンス文化もゲーム方向と別に成長していった(ここは詳しくないので詳しい人にまかせる。)
  • ゲーム方向でも色々あった
    • いわゆる「地団駄」とそれにともなう「バー持ち」あたりがメジャー。
    • 「ゲージの減少量」から来るクリア判定というのも地味にゲームプレイ(とそれに付随する価値観)に影響していると思う。
      • そしてゲーム方向は地団駄を経て「ノンバーDP最高難度」みたいなものを生み出し、それらの動画は「そういうもの」として洗練された動きでありコンテンツとして一定の評価を受けている(と思う)

DanceEvolution

  • http://d.hatena.ne.jp/WAFL/20110222/p1
    • ここで描かれている内容は、DDRのそれとかぶる部分が多い。
  • それなりに見てた感じだと、ネット上のダンエボに関わる発言の中に「ダンスとしてどう」という物言いは一定数存在した。
    • 「ダンスの審美眼」「得点判定」とかになってくるとかなり難しい話になる
    • いわゆるRPGの起源であるところの「ゲームマスターCPUがやってくれる」的な意味だと、「ダンス美」というところに収束していくのは正しい。
      • ダンエボ、ダンセンはそこで「お手本どおり」というのが確実に存在するため、そこが新しいとは言える。(DDR他のコナミ音ゲーはそこで「オリジナルパフォーマンス」に行かざるを得なかった)

ゲームとして

「音楽」「ダンス」「ゲーム」

  • プリミティブな「音楽」「ダンス」を巡る話としては、「音があって体が自然に動く」みたいな話はある。
  • 逆に、「指示に従って学習し完璧にこなす」という、プリミティブなゲーム体験、みたいな話もある。
  • kinectというのは「体の動きそのまま」というのがウリではあるのだけれども、だがしかしゲームは「インターフェースへのインプット」と「画面に表示される情報」と、「それによる結果のアウトプット(デジタルな点数とか)」というのがそれぞれ存在している、と自分は思っており、「kinectのゲーム」もその構図は基本的に変わらないと思っている。*1
    • 「体を動かすと楽しい」という本能的な楽しみがkinectにはある
    • 同時に、「要求された入力を達成しデジタルに判定された出力が出る」という理性的な楽しみもkinect(のゲーム)にはある、ということ。

「ゲームとして」

  • ゲームマスターの代わり」というところからいくと、「何をどう判定するか、スコアを出すか」というのは、製作者がどうプログラミングするか、という話になる。
    • その点でいくと、コナミというのはまあ色々頑張ってきましたよね、という意識は個人的にだがある。ダンエボは完璧といえないまでも、よくできていると思う*2
  • さらにいうと、「製作者がプログラミングした判定」とプレイヤーが数年にわたりコミュニケーションし続け、行き着いた先が「DDRDP最高難度ノンバー動画」みたいなものであるので、俺はその方向は伸びていくべきだと思う。
    • WAFLさんの文章を読んで不気味な高得点リプレイを肯定したい、といったのはそういうこと*3
  • もう一歩踏み込むと、「ゲームとして」考えた場合、「何を目標とするか」はプレイヤーに委ねられている。最高得点を目指すのか、ステージクリアを目指すのか、実績解除を目指すのか、あるいは個人的に設定した目的の達成を目指すのか。
    • それらは全く別々のプレイとして存在するし、否定されるものではない。そしてそれはプレイされるごとに洗練され、独自の動きになってゆく。

結論としては、人それぞれであるところの「プレイヤーの目標」が、阻害されることなくそれぞれに洗練され、プレイヤーの快感を生みだしてほしいし、そしてまた(それが本当に洗練されていったのなら)俺はそれを見てみたいと思う、というところになる。

永田泰大という人が書いた「ダンスは続くよ」という文章において、人はゲームと相対してある瞬間が訪れた時にその人固有のダンスを踊るのだ、と書いていたんだけれども、気分的にはそういうことである。ダンスだけに。

*1:当然「そのまま」なのも魅力の一つではあるのだが

*2:余談だが長くない制作期間で様々なアクシデントがありつつよく作ったと思っている

*3:ただしそれが「変な動き」であることは真実ではある。俺がそう。

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