昭和16年9月

 仙尾引き上げ,広東へ帰営する。戦闘訓練は日増しに激しく,殊に砲の射撃については厳しさを増す。世界の情勢悪化に対する為と思われる。白雲山では,砲を馬より降ろし険しい山坂を分解搬送,山の稜線手前で砲を組立て弾を込め,稜線上へ押し上げ直接砲門射撃だ。重い砲身を担い登坂しようとする山の稜線を見上げては「もー,あそこ迄行く間に息絶えるよな−」と戦友同士語り合うことが何回あったことか。
 亦連隊の砲門射撃競技会も行われたが,優秀な成績を上げたことは知る人ぞ知るである。或いは赤土の黄塵だらけの泥路で強行軍が行われたが,人馬共に顔の見分けもつかない程汗と黄塵だらけの時もあった。

昭和16年11月25日

 広東大沙頭駅出発,九竜鉄道南下,石龍宿泊の後隠密作戦行動として夜行軍となる。何処へ行くのか皆目判らなかったが,その内佐野兵団配属・目的地は香港と判る。東莞・白沙・河田を通過,蕪村に入る。昼寝て夜行軍の繰り返し。昼寝ると言っても何や彼やとあり十分な睡眠はとれない。

昭和16年12月8日

 やっと寝たかと思うと,「起床ッ」と当直に起こされる。午前3時だ。改めて出発はいつでもできる様に準備しておけとのことで,砲車弾薬機械を並べ馬にも鞍をのせ,いつでも出発できる態勢を整えた。夜が明けてきた。見た処草原で岡が所々高くなり,舗装された道路が一本南北に通過している。愈々出発,だが先が遅々として進まない。山砲は途中山越えのこと分解。田圃道に入り,馬も岡の上り下りに転んでは起こされ苦労している。兵も大変だ。正午過ぎ,アスファルト舗装道路に出る。砲を組み立て契架で進撃する。後方より荷物を満載したトラックが追い越してゆく。午後4時頃,漁船らしい舟が一杯居る漁港に着く。宿舎が割り当てされる。突然九竜の方角で異様な爆発音を聞く。皆びっくりしたが何の音か判らない。その内英軍が九竜トンネルを爆破したものと判った。
 翌日は山峡い(やまかい)の部落に宿営。鹿島市出身M武上等兵が大きな黒豚を連れてきた。中国人同伴だ。M武上等兵は体格も申し分なく非常に器用な人である。十字鍬で豚の額を一撃したが急所を外れ,豚は上等兵に跳びかかってゆく。他の上等兵がこれは危ないともう一度脳天を一撃した途端,さすがの豚もひっくり返った。M武上等兵は熱発しマラリアで寝込んでしまった。その日はおかげ様で,旨い豚料理を戴いた。然しM武上等兵は一口も食べなかった。豚の内臓その他は,連れてきた中国人が「ホーホーデー」言って喜んで持ち帰った。
 中隊機関の観測通信小隊に東北から来た初年兵が居た。きれいな葉を野菜と間違え夕食の料理に出したところ,小隊の半数が下痢反吐など中毒症状を起こし寝込んでしまった。中毒をおこしたものは喫煙しない者ということで,煙草の葉を料理に使ったものと判った。

昭和16年12月14日

 九竜の北側山岳地帯に進出。目指す香港は前方眼下。初めて見る香港は,海岸より山上に向かってビルが連なって見える。港内には日本軍の爆撃による数隻の船が沈んでおり,マストだけが見える。ちょうど日本機が一機上空に飛んでいる。香港側からは丸見えの道路,九竜の山稜線を越え西へ進む。英軍はその時どうしていたのか,射撃もしてこなかったのは今考えても不思議でならない。
 愈黒山という山の稜線手前に五中隊が砲列を敷く。S本連隊長が吾等山砲だけでなく,追撃砲・野戦重砲・臼砲・師団山砲等全砲兵を統合した軍砲兵団の司令官として指揮することになる。今やS本砲兵団総攻撃,約180門の火砲が一斉に火ぶたを切る。香港島は終日砲煙に包まれる。

昭和16年12月17日

 夜明け方,砲の側に寝ていたところ,突然大きなうなりを立てブルンブルンと敵砲弾が飛んできた。昨夜の山砲の砲撃地点を目標に撃ち込んできたものと思われる。ブルンブルンと頭上すれすれに大きなうなり音をたて,陣地後方谷間の駄馬位置へ飛んでいってはもの凄い爆発音を立てている。驚く馬を御者は勇敢にも山陰へ連れ去っている。山砲の前,稜線の先へも次々に飛来し破裂する。不発弾を見たが15糎榴弾砲と思われる。頭上を飛び越えた弾が駄馬位置でしきりに破裂している。ここで同年兵観測手T原君が戦死。観測器を安全位置に運搬中のことであった。(合掌)
 戦後,T原君の奥さんと長男の方が,せめて戦死の地でも見て英霊を慰めたいと黒山陣地跡を訪問されたが,草原の山には民家が建ち並び位置がつかめなかったとの由である。

昭和16年12月18日

 夕刻,愈今晩香港島へ渡河決行との命令下る。夜になると敵は自動回転式探照灯を照射してくる。探照灯香港島中央山腹がボーッと明るくなると,九竜西端海岸より照射し,吾々がこれから下山渡河点へ前進しようとする道路を照射,現地点より東の方山腹へ移行する。渡河点迄は舗装された九十九折りの狭い一本道で,遮蔽物一つない下り道である。
 兵馬総て木葉や雑草で偽装。日暮れて出発下山を始めるが,照射された時の気持ちは何とも言いようがない。御者の兵は馬に面し引き綱を両手で握り「オーラオーラ」と小声で言う。砲手は馬の尾を掴み動かないようこれも小声で「オーラオーラ」。大声で言っても敵に聞こえる筈はないのだが,探照灯の照射が気持ち悪いからだろう。なかなか先に進まない一本道で照射が近づいてくると,隊長の号令「止まれ」。御者は馬へ対面「オーラ」。何回繰り返したことか。長い距離ではなかった筈なのに,ホントに長く長く感じたのは小生一人ではなかった。途中で「先ほど,工兵隊による渡河成功の赤信号弾が香港島海上に上った」と伝令が知らせる。やっと海岸に着く。九竜突角鯉魚門砲台前面である。敵砲弾もひっきりなしで,ドンバリドンバリと繰り返しやって来ては派手に破裂する。80屯位の船が待機している。山砲弾薬機材等そ夫夫の装具も忘れないよう注意しつつ積載。約20分船上無事。香港島へ特科隊としては一番乗りをなす。
 上陸後,大造船所近くの缶詰工場跡に宿営。敵の攪乱射撃が一晩中大きな音をたてては破裂して居た。疲れからか平気で眠りにつく。
翌12月19日。第二大隊渡河完結。

昭和16年12月20日

 守るに易く攻めるに難しと言われた香港島
 陣地が段々上へ上へと山又山に構築されている。地形も谷多く歩兵は悪戦苦闘,戦死者も多数出たと聞く。敵味方あまりに接近しすぎて陣地砲列を敷く間もない程であった。

昭和16年12月21日

 海抜430米のニコルソン山では,敵味方の第一線が対視。山の斜面を利用した敵が,肉薄する日本軍に手榴弾をぶつけ転がしている姿も見える。彼我の前線密着接近の為,援護射撃は無理である。死闘数時間,歩兵は一つ一つ岡の陣地を攻撃してゆく。

昭和16年12月22日

 昼頃である。先が進まない侭,山峡の一本道で休んで居ると,後方の歩兵が「敵戦車だッ」と大声で叫んだ。成る程先刻よりパリーパリーという戦車の音がするなと思っていたところだった。戦車の音が次第に近づいてくる。
 道路上にいた兵・馬総て谷間や山の陰に遮蔽する。小隊長の命で直ぐ砲を道路の中央に組み立てる。後方道路の曲がり角山の端へ直接照準をつける。隊長の「距離300米直接照準瞬発信管」の号令。曲がり角山の端へ戦車が首を出したら,回転の瞬間にキャタピラを砲撃,第二弾で砲塔をと決意。1番2番3番砲手だけ道路上に残り戦車との対決を待つ。私の照準に狂いはない。張り詰めた数秒。「生きて帰れば親許へ,死んで帰れば仏の許に」と念じたのもこの時である。然し歩兵伝令より「敵戦車は他の道へそれていった」と連絡有り,張り詰めた気も瞬時にしてゆるんでいった。

昭和16年12月24日

 「英軍の強靱な抵抗も遂に潰える時が来た。敵はもうこれまでかと降伏したのだ。九竜半島,香港島を併せ大復廓陣地を築いて居り,かつての日露戦争時の旅順要塞にも比すべき陣地であった。S本連隊長指揮大砲兵団火力を以て空から容赦なき爆砲撃を振る舞う。歩兵の必死な敢闘も,陥落まで一週間を要した。当方戦死683名,戦傷1413名」と戦史は伝えている。
 山砲手入れで真黒く油に汚れた体を,一ヶ月振りに谷川へ洗いに行く。服も汗と油で黒光りしている。その後所謂「徴発」の経験がないので隊長の許可を受け,一時間の予定でブラリと出掛けた。綺麗な洋館建に入ったところ,階下は既に兵隊に荒らされている。最上の6階迄階段を昇り,閉まっていたドアを蹴破って中に入る。奥に人の気配を認めたので用心し乍らその方を見ると,外人の女が一人うずくまっていた。小生手を横に振り「NO NO」と言って安心させ,破ったドアを閉めて外に出る。次に5階の荒らされた部屋で,机の上にあった径10cmの丸いメダル様のものに「ゼネラル ハセガワ」と記されたものを記念に持ち帰った。

昭和16年12月28日

 香港入城式。大きなビルの建て並ぶ市街で実施される。窓には日の丸の旗が差し出されている。陸海軍の兵整列し海軍軍楽隊の行進曲が流れる中,陸軍中将酒井軍司令官や海軍司令官・幕僚達が乗馬姿で行進してくる。私には初めての亦最後の入城式であった。

昭和16年12月29日

 軍の方針により,山砲隊は国境の深圳(シンセン)地区警備に回された。休日は香港の名所でも見学しようと思っていたが,とうとう夢となった。国境へ向かう。作戦中遠いと思っていた道路を逆に行進して,こんなに近い道だったかと驚く。山砲はつらい。
 学校跡と思われる二階建てに宿泊。
 一日過ぎれば正月だ。その準備に追われる。
 私は作戦中体重が6kg減っていたが,この深?で68kgに肥えた。ぜんざいを飯盒一杯半=一升五合喰い,戦友を驚かせたのも此処である。苦の後に楽ありと言うが,今はその楽なのか,後に来る苦とは神ならぬ身の知る由もなかった。