国家と宗教(2)

 佐々木毅学習院大学教授の『宗教と権力の政治』(講談社)は、『「哲学と政治」講義』シリーズの2にあたり、西洋中世における教会権力と世俗権力との角逐から、ルタ−・カルヴァンらの宗教改革を経由して絶対的権力としての「主権」概念が成立するまでの歴史的経過を講じている。初めて知ることも多く、勉強になる。
 8〜9世紀に作成されたとされる「コンスタンティヌスの寄進状」なる偽書によって、カトリック教皇に教会の真の長である地位と、西方の支配権が与えられたというくだりは実に興味深い。権力をめぐる闘争においては、より上位の権威による〈御墨付き〉を求める法則があるのだろうか。昭和天皇の「A級戦犯合祀」不快ご発言メモなども、機能的には同じ効果をもち得るのか。
 トマス・アクィナスの考えは、中世においては必ずしも正統とは認められておらず、「彼の思想が正統と認められるようになったのは宗教改革の後」だとは、素人には新鮮な知見。
『このようにキリスト教の伝統的な議論と比べるとトマスは国家とか社会生活の骨格部分について現状に対してかなり肯定的な態度をとっています。つまり、神学のドグマを持ってきてそれらは価値のない罪の産物だというような議論を行なっていない。それなりに現実の社会生活には価値があること、それらをひたすら反価値化して教会と教皇の権威を高めるといった議論には荷担していないこと、こうしたことが確認できます。』
 さすがに著者得意のマキアヴェッリのところは一段と面白い。イタリアの平和の確立を願った彼にとって、「中世的な世界とは異なり、人間の内面と権力の問題は切れている」のであって、「政治は、人間の外面的なことを扱う」ことに限定される。そのうえでどうすれば、最も効果的に外面的な平和が樹立できるかを考察したわけだ。

 マキアヴェッリの著作のなかで生前もっとも注目を浴びたのは、『マンドラゴラ』という作品で、かつてこの作品の公演(1981年=昭和56年・於池袋サンシャイン劇場仲代達矢主演『喜劇・マンドラゴラ—毒の華』)を観劇したことがある。
 その折のパンフレットに、当時気鋭の研究者であった佐々木氏が寄稿していた。
『人間社会の秩序とは所詮、それが国家であれ家であれ、人間のさまざまな欲望の一時的調停や相互依存の以外の何物でもないことがここに示されている。喜劇の世界はその人間や社会関係に対する観察において政治論と驚くほどの共通性を持ち、従って彼が両者を同時並行的に執筆したのは決して不思議ではなかったといえよう。』
「ローマとジュネーヴを本拠地とする二つの国際的教会の戦い」であった宗教戦争の渦中で、フランス王権の行なった「聖バルテルミの大虐殺」(1572年)を契機に「抵抗権」の議論が加速し、そこに生まれた無政府状態を終熄させるべく、「法とは支配者の命令である」との「主権論」が成立したのである。この「聖バルテルミの大虐殺」の事件の凄惨さについては、イザベル・アジャーニ主演の映画『王妃マルゴ』でビジュアルに実感することができる。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町のサルスベリ百日紅)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆