「白村江の戦い」の真実


 第一部の基調報告、第一章は、倉本一宏国際日本文化研究センター教授の「「白村江の戦いと民衆」。扶餘の白村江とされた場所には、昔韓国語に堪能な職場の同僚と韓国を旅した折に訪れている。錦江の河口で、料亭の向こう岸の岩山から百済滅亡の際官女らが飛び降りた話なども聞いた記憶がある。その時食べた独特の鯉のあらいの味も思い出す。
 さて倉本氏の報告によれば、白村江が錦江の河口との通説はほとんど根拠がないそうである。史料によれば、周留(する)城という城の近くが白村江であるとのことで、現地歴史家の全榮來氏の調査によって、位金岩山城こそが周留城だと考えられ、そうだとすればその近くを流れる東津江の河口が白村江だと、全氏は言っている。

 しかし、唐・新羅軍にしても倭国百済軍にしても、双方数万という大軍です。東津江にしても錦江にしても、その河口に何百艘もの船団を配置できるとは思えません。おそらくは、東津江河口から錦江河口にかけての海が、戦場となったのだと思われます。(p15)

 なるほど海戦であったのか。しかし百済復興戦の主戦場は白村江ではなく、倭国軍の主力は実は新羅の都金城(後の慶州)を目指して進軍していたのだとのこと。慶州も小さな奈良のようで、一日散策し廻ったたことを懐かしく思い浮かべる。ところで白村江で敗れたのは主力軍ではなく、第三軍つまり輸送船団だったのだ。しかも倭国軍は「豪族の寄せ集めであり、国家軍では」なかったのに対して、唐の軍勢は「国家軍であり訓練されて統制のとれた軍隊」であったから、敗退したのである。そしてこの敗戦は、壬申の乱の趨勢にも余波を及ぼしているのである。面白い。

 西日本の豪族たちは、百済復興戦のために多くの兵を取られ、多くの人間が戦死しました。そして戦いに負けてからは、国内防備のために多くの山城を造らされ、人員的にも経済的にも疲弊してしまっていました。そこに起きたのが、大王天智の後継者を巡る戦い、壬申の乱です。壬申の乱に勝利した大海人皇子の傘下にあった軍勢の大半は東国の兵士、敗れた大友皇子が頼りにしたのは、この疲弊した西日本の兵士でした。つまり、戦う前から、勝敗は明らかだったわけです。(p.31)