京都の愚を繰り返すな

京都の愚というのは、全体の投票率を下げて全体の中の固定票(政党支持者や利権者層)の割合を高くして勝とうという戦略を有効にしてしまったことです。
http://d.hatena.ne.jp/starboard/20120208

あのときの京都市*1も、なんとなく盛り上がらない、入れたい人がいない、どうしたらいいのか分からない、もう結果が分かってるから行っても無駄という気分だったと思います。今週末は衆議院選挙ですね。似たような戦略を感じるのは私だけでしょうか。自分の周囲や調べて目に入る範囲内の感触*2が、報道と正反対という点も似ていると感じます。

国民の大多数である保守層にしても、これまで政権をとった経験のない党に政権を任せるのも懲りたし、元の自民党政権時代に戻るだけ、という気分の人が大多数だと思います。ところが、もう「元の」ではないのです*3

ところで、今の日本で戦争が起きる可能性に言及したら、頭がおかしいと言われるでしょうね。私は2011年3月15日に関西から福島に走ったときにそれを感じて、まさかと思いつつ、その後それを否定してくれる材料を探しているのですが、残念ながら裏切られっ放しです*4

まずドイツが戦争に突入したときのことを読んでください。
http://skmtsocial.tumblr.com/post/37628588064

次に、今回自民党が提示している憲法改正草案に何が書かれているかを見てください。

日本国憲法改正草案
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

条文 現状 改正草案
第99条(緊急事態の宣言の効果) 対応無し 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
第21条(表現の自由 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。 (第1項に追加で)
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。


この改正草案の全ての条文の対照とコメントが読めます。色の付いているコメント欄だけでも目を通してください。私なりに注目点を箇条書きにして挙げておきます。
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/Jiminkenpo2012.htm

  • 天皇国家元首に(第1条)
  • 国旗国家の制定・尊重義務(第3条)
  • 「戦争の放棄(第2章)」が「安全保障」と置き換えられ、自衛権の発動という名目であれば戦争や武力行使を可能とする表現になり(第9条)、第9条の2でそれに向けた制度的な準備が整えられている。
  • 第12条(国民の責務)、第13条(人としての尊重等)、第21条(表現の自由)、第29条(財産権)に「公益及び公の秩序」に反しないとの制約が統一して登場している*5
  • 第96条の憲法の改正において、衆参議院の三分の二以上の賛成が必要との要件が、過半数に緩められた(将来の改正への準備)。
  • 第97条の「基本的人権」がまるごと削除
  • 全体として、国家や公の秩序を前提として、国民はそれを尊重し守らなければならないというトーンに。憲法によって国家の行為を制限するという現在のあり方と逆である。

それではどうすればいいのか(2012衆議院議員選挙)

自民・公明・民主・維新は、選挙後に合流して、ここで解説した動きを進めていくと思います。そういう目的の解散であり総選挙です。今回の選挙では、この動きを防ぐことが重要です。日本人は理想主義なので、全てにおいて欠点の無い候補者がいないと全てを放棄しがちな傾向にあると思いますが、政治においてはセカンド・ベストが重要です。上記4党の合計で過半数をとらせないことが重要です。また新党の乱立している今回の選挙では、票が拡散して死に票になるというのも意識しないといけません。死に票にしないために、下記を参考にしてください。

ロイターオンライン調査(サイトの下の方)
http://jp.reuters.com/news/globalcoverage/politics

*1:のうち受動的な大多数。

*2:わざわざ反対意見を探した結果。

*3:これは、311以後、日本人が、大方の政治家が予想していたよりもずっと従順だということがバレてしまって、彼らがそれまで行っていたことよりも、もっと強硬なことを行っても大丈夫だと確信したのだと思います。

*4:全く荒唐無稽で現実味が無く何を言ってるのか分からないと思いますが、太平洋戦争に突入したときの国民もそんな気持ちだったろうと思います。

*5:これまでは「公共の福祉」に反しないという表現だった

タブーについて、私の反省について

京都会館のことを扱って以来このブログは迷走して色んなことを扱うようになったわけですが、最近は、政治の話はタブーという日本の常識について、それに従って自粛してきた自分について、つくづく反省しています。

この問題は非常に複雑で一人で対応することは難しく、各人の専門性を持ち寄って多様な視点の意見を交わすことによって深まるというステップが不可欠で、一人で色々調べて完結することは非常に難しいだろうと思います。その難しさは、まるで、学校にも通わないで、定評のある教科書の存在も知らずに、たった一人でゼロから調べて、ひとつの学問に取り組むようなものです。

そのような性質を持つ問題について、社会的にタブーであり、話題にしてはならないということにしておけば、情報は共有されず、適切な判断は下されず、解決手段はいつも適当になり、状況は把握されず、どんどんズルズルになって人々の目にはどうしようもなく手の付けようがなくこじれた問題として写り、そのような状況に閉塞感と諦観が漂い、人々の関心は薄れ、益々投げやりになってしまうことでしょう。

ですから話さなければならないと思います。なんとしてもタブーを打ち破らなければならないと思います。タブーを守っている人々は、たぶん本人は、他人の気分を害しないように自分の言いたいことを飲み込んで貢献しているつもりだと思いますが、その行為の加害性(結果としての加害性)を自覚した方がいいと思います。日本人の自己犠牲精神が結果としてもたらす加害性というものについて、この2年見つめ続けざるを得ませんでした。

ネットというのは私には有難いメディアでして、内心では気に入らないんだけど波風立てないために仕方なく笑顔で応対してくれているのかも・・・と発信側が先回りして心配する必要はなく、気に入らなければ読まない、立ち去るという自由が受け手の側にあります。気に入らないと表明する自由もあります。自由はあなたの側にあります。