矢野さんのファンにとっては辛い1枚かも

 「えこま」さん*1がblogを再開されたようだ。取り敢えずは、胸を撫で下ろす。
 さて、「最近矢野さんを相対化せざるを得ない音楽的体験をしてしまいました」*2と書いた。その「音楽的体験」とは、ChieftainsTears of Stone(1996)を聴いたことである*3。このアルバムには、矢野顕子のほかに、Bonnie Raitt、Nathalie Merchant、Joni Mitchell、Sinead O’connor、Joan Osborne、さらにはDiana Krallといった女性シンガーがゲスト・ヴォーカリストとしてフィーチャーされているわけですが、この面々と並列されてしまうと、さすがに矢野さんも相対化されざるを得ないというか、もっといってしまえば、聴いてて居たたまれなくなる。だから、このアルバムは矢野さんのファンにとっては辛いアルバムなのではないかと思ってしまう。だからといって、矢野さんをリスペクトする気持ちに変わりはないわけだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/eco1/

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139318386#c1139335064

*3:中国盤は、愛爾蘭酋長楽隊『石頭的泪滴』。

構築された本質、それは外から? 内から?

 kmizusawaさんが怒っている*1。つまり、九州で何か性差別的な事件があると、〈九州は男尊女卑だから〉と風土的本質に還元され、それで説明したつもりになっている人が多いけれど、それってどうよ? ということだ。ちょっと小難しい言葉で言えば、外部者による〈本質〉の構築を通しての本質主義的還元への不満・批判ということになるだろうか。
kmizusawaさんは〈九州人〉として、外部の人間の本質還元主義的な視線に反発しているわけだが、本質還元主義というのは外部からだけでなく、内部からのものも当然考えられる*2。或いは、オリエンタリズムナショナリズムの相互補完性と相互反発性というテーマも思いつく。ここで直接いいたいのは、〈九州は男尊女卑だから〉というのは、外部の人間だけでなくて、〈九州人〉自身によって、自らを正当化したり批判したりするときに、お手軽な道具として使われているんじゃないかということ。私の経験からいうと、例えば〈日本〉について外国人が〈日本人はさ〉云々ということよりも、〈日本人〉が〈日本人はさ〉云々ということの方がむかつく。それ自体が差別的な前提かも知れないが、外国人の場合は、まあ外人だから仕方がないと寛容になれてしまうのである。それに対して、〈日本人〉が〈日本人はさ〉云々という場合は、お前に〈日本人〉を代表する資格があるのかとかお前がいうところの〈日本人〉に俺は入っているのかとか、むかつきまくりなのである。さらに、それが外部の言説に迎合しているような場合には特に。だって、外部の人にとって、当人たちもそう思ってるというのは、その言説の正当性の主張にそれなりの役割を果たす。少なくとも、〈お前が勝手にそう思ってるだけだろ?〉とは突っ込めなくなる。
ところで、kmizusawaさんのテクストでもkmizusawaさんによって突っ込まれている「がおこ」さんのテクスト*3でも、非難或いはエクスキューズとして、「九州のことをよく知らない」、「九州を良く知らない」というフレーズが使われている。対象を「よく知」れば知るほど、そのディテイルを感受すればするほど、安易な一般化は不可能になるわけで、逆にこういう物言いが〈無知〉の産物であるという言い方も可能なのだが、私たちは(例えば)〈九州人〉を〈知ること〉ができるのだろうか。或いは、〈女〉を知ることができるのだろうか。不可能でしょう。だって、私たちが知りうるのは、(〈女〉に属しているかも知れない)AさんとかBさんといった具体的人物であり、決して〈女〉そのものではないからだ。AさんとかBさんといった具体的人物と〈女〉という一般項を繋ぐもの、それは〈女ってえのはさ〉云々という言説、特に「云々」という補語或いは動詞句に当たる部分であろう。つまり、〈女〉にせよ、〈日本人〉にせよ、〈九州人〉にせよ、一般項が主語として、主題として機能するのは、補語或いは動詞句と結びついて言説を形づくることそれ自体によってである。換言すれば、一般項は不断に補語或いは動詞句を求め続けているともいえる。
以上では、例えば〈九州人〉というふうにギメで囲んでいる。「自分の住んでる島(笑)を悪く言われると反発の気持ちがわいてくるのはぷちナショナリズムのあらわれなんでしょーか(^^;))」とおっしゃるけれども、私を一般項に繋げるとき、私は〈想像の共同体〉を構成し、それに参与していることになる。〈想像の共同体〉の構成・維持においては、鉄道、郵便、新聞、教育、或いは靖国神社といった装置の役割が論じられている。或いは、外部の視線。例えば、〈亜細亜〉。外部からかくかくしかじかのものとして視られている者同士という意識が〈想像の共同体〉の構成を導く。〈九州〉の場合はどうなの?と思ってしまう。
どう結んでいいのか分からなくなった。そもそもの疑問は〈九州は男尊女卑だから〉という言い方って、いったい何時頃から誰によって始められたのか、そういえば〈九州男児〉なんていう言い方もするな*4ということだったのだ。

ところで、ここでリンクを張ったこともあるblogがプライヴェート・モードになっていた。「ネット・ストーカー」を避けるためであると。ここを経由して侵入したという可能性もないことはないので、気も重くはなる。

情人節

 ヴァレンタイン・デイ。日本のウヨ諸君は〈攘夷〉を決行するのだろうか。
 “Japanese have sweet tooth for rich chocolates”と題されたReutersの記事*1を読む限りでは、チョコレートは職場等の〈義理〉から〈自分へのご褒美〉にシフトしているようだ。
 上海ではヴァレンタイン・デイ、すなわち情人節はチョコレート屋さんの日ではなく、プロモーションにいちばん力が入っているのは、飲食業界であるようだ。ファスト・フードのチェーンでも高級レストランでも、ヴァレンタインのペア・ディナー・セットが目玉になっている。スターバックスでも、ハート型ケーキとラテのセットが出ている。あとは花屋。それから、コンビニのカウンターには、ヴァレンタイン向けのコンドーム・ギフト・セットが並んでいる。
 上のReutersの記事によれば、日本でモロゾフによってヴァレンタイン・デイが導入されたのは1936年のことだから、今年は70周年ということになる。


追記


OLの7割「なくなって」 バレンタインデー調査

 「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」というOLは70%。サラリーマンも50%がそう感じていることが、インターネットで情報提供を手掛けるアイブリッジ(大阪市)が実施したバレンタインデーに関するアンケートで分かった。
 同社のモニター会員のうち、企業に勤務する20−30代の独身男女各300人がネット上で回答した。
 女性は47%が「数日前から」、26%が「1週間以上前から」贈り物を用意、義理チョコの理由は「コミュニケーションの手段」(42%)、「毎年の恒例」(40%)などだった。
共同通信) - 2月13日17時5分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060213-00000137-kyodo-soci 

だって。

*1:Sahnghai Daily 13 February 2006.

Skin Tradeの問題

 


介護現場、56%が暴力被害 セクハラも4割

 ホームヘルパー介護施設職員など介護現場で働く人を対象に八戸大学の篠崎良勝専任講師が実施したアンケートで、利用者や家族から、精神的な面も含め暴力を受けたとの回答が56%、セクハラ(性的嫌がらせ)を経験したとの回答が42%に上ったことが13日、分かった。
 アンケートは昨年6月から9月にかけて、不当な言動などで介護従事者の人権や職域を侵害する「ケア・ハラスメント」(ケアハラ)の実態を探るため、10都道県の計500人を対象に実施。286人から回答を得た。
 暴力のケアハラを受けたのは、自宅訪問するヘルパーの45%に対し、特別養護老人ホームなど介護施設の職員は78%に上った。全体では実際に殴られたのが35%、言葉によるものが18%だった。
共同通信) - 2月13日17時24分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060213-00000144-kyodo-soci 

取り敢えずメモ。「ケア」という労働は、英語でいうskin tradeという、より大きなカテゴリーに属す筈。ただ、福祉業界ではそのような捉え方自体が自らのcallingに対する冒涜と見做される可能性もあり。で、そのことが「ハラスメント」を拡大するという可能性も。
 昨年末、塾講師が生徒を殺害するという事件が起きたが、skin trade一般の問題として議論されなかったのが不満だった。

饅頭殺人事件

 陳凱歌監督の『無極』が実は〈饅頭〉を巡る映画だったというのは既に書いたが*1、伯林映画祭に真田広之や張東健らとともに参加している陳凱歌監督がネット上にアップされているショート・ムーヴィ『一個饅頭引發的血案』に激怒、その制作者である胡弋氏を既に告訴(中国語では「起訴」)したという*2。『東方早報』の記事に載っている上海の弁護士である張移氏のコメントによれば、著作権侵害は成り立つ。陳乃蔚・上海交通大学法律系主任によれば、成立しない。
 『一個饅頭引發的血案』がどういう内容なのかはわからないが、『東方早報』には、アインシュタインみたいな髭のおじさんが黒板に「無極=無聊×2」と書いているシーンが掲載されている。字幕には「当一個物体的速度達到光速時」と。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060125/1138164201

*2:李雲霊、劉嘉〓 「一個“饅頭血案”引發的官司」『東方早報』2006年2月13日。

ニート脳?

 承前*1
 「万事は政治の問題ではなく、教育或いは(パラメディカルも含めた)医療の問題でしかない」社会に関して、http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200601300004.htmlと「using_pleasure」さんのコメンタリー*2を補足的にマークしておく。曰く、


要は、気づかないうちに「ニート」は病理化されつつある、というわけだ。きっと遠くない未来に、「ニート」は「労働意欲欠乏症」とか「ニート脳」とかいった名前のもと心身症の一種とされるのかもしれず、そこでは「社会復帰のための職業訓練」という名のもとに、様々な超低賃金労働に「ニート」たちは動員されるようになるのかもしれない。
こちら*3も〈脳〉問題。文学研究と大脳生理学のコラボレーションが期待される?