翻訳及び理解について

以前のhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060816/1155708186と関係あるか。

大野和基というジャーナリストの方の


 「翻訳の功罪」http://www.globe-walkers.com/ohno/school/column044.html


というテクスト。これを紹介しているBさん*1は「違和感」を感じている。曰く、


この方は、文学の中に、ちゃんと読み取るべき「正解」があると考えていらっしゃるみたいだ。なかんずく、「著者の意図」というのが最高に保証されるべきものとして想定されている。
私も読んでいて、やはり同様な「違和感」を感じたのだが、考えてみると、これは大野さんの言語観に対する違和感であった。最初に大野さんは、

翻訳は、必要悪とでも言うしかないが、できるなら原文で読むのがいい。特に純文学となると、作家は言葉一つ選ぶのでさえ、慎重になっているのに、それを他の言語に置き換えると、どんなに優秀な翻訳家が訳したとしても意味がずれることがあるからだ。翻訳の宿命である。かと言って、原文で正確に読む力のない人が原文で読むと誤解だらけになるので、翻訳はどうしても必要になる。
と述べている。たしかに「できるなら原文で読むのがいい」が、それは何よりもシニフィアンシニフィエを伝える透明な道具には還元できないからである。翻訳とは取り敢えず、シニフィエを保存しつつシニフィアンを替えようとする実践と定義できるかもしれない。しかし、シニフィアンが変われば、それと結び付いたシニフィエ(の可能性)が新たに喪失したり・獲得されたりしてしまうのだ。では、シニフィアンが保存されればそれで万事OKかといえば、そうではない。

イシグロ氏の最新作『わたしを離さないで』の書評はどれを読んでも、奥歯にものがはさまったようなものだった。種明かしをしてはいけないと、書評家が勝手に思い込んでいたのだ。本人にそのことをきくと、書評家に指摘されるまでそのことを意識しなかったというから、ほとんどすべての書評が、間抜けになってしまった。どんなに優秀な文芸評論家でさえも、著者の一言で覆されると、間抜けの書評になってしまう。だから、ぼくが書評を書くときは、どれほど短いものでも、本人が生きている限りは、必ず本人にインタビューすることにしている。間抜けの書評にならないようにするためだ。短い書評でも、電話で著者に確認することで、自信を持って書ける。特に、作品を通して読者に伝えたいことが、ずれているとこれほど恥ずかしいことはないので、せめてそれだけは確認しておいた方がいいだろう。
シニフィアンが喚起するシニフィエ、それはwhat author/speaker wanna say*2に還元できるものではない。いや、仮令にwhat author/speaker wanna sayであっても、それはそのauthor/speakerの全体的な知的・言語的ライフ・ヒストリーを参照しなければ、決定できるものではない。しかし、そんなこと、書いた/話した本人だって、わかりっこない、或いは覚えてなんかないのである。また、機能する理性は自らに対して盲目であるという現象学的鉄則もある。だとしたら、著者にとって、一旦書いてしまったテクストはどこか余所余所しさを湛えた他者性を伴いながら自らに現れてくる筈である。著者は自らが産出したテクストに対しては(理論上は最初であるとはいえ)一読者として接するということになる。だから、著者が「作品を通して読者に伝えたいこと」と自称するものは、尊重されるべきものであっても、それ自体はひとつの読み、ひとつの解釈にとどまる。
Bさんがおっしゃるように、「「作家」は自分の作品に対してさえ責任を持てぬものだとするならば、それこそ「書評家」なんて、何を言ってもいい」。しかし、それは公的な批判に開かれたものでなければいけない。
結局のところ、三好さんの言語観というのはロラン・バルトジュリア・クリステヴァ以前的なもの、更にいえば、ローマン・ヤコブソン以前的なものだということである。
ところで、その三好さん、あのトーマス・ピンチョンと交友があったということは凄い――「トマス・ピンチョンは、私がニューヨークに住んでいるときに、娘が、彼の息子と.たまたま同じクラスにいたので、しょっちゅう話をしたのですが、短編小説を書くのは長編小説を書くよりもはるかに難しいと言っていました」*3