CSF2006年10月例会

CSF-MLから


6月例会から大分間があいてしまいましたが
(7月には文化台風がありましたが)
10月例会のお知らせです。

日時:10月15日(日)14:00〜

論題:「入れ替え不能性」をめぐる思考──宮台真司の「亜細亜主義」を読む

発表者:千葉慶
ディスカッサント:未定

会場:明治大学和泉校舎研究棟会議室
 (研究棟は、正門正面にある第一校舎の 右手にある第三校舎の裏です)
最寄駅:京王線明大前駅

【要旨】
今回の報告は、宮台真司がここ数年論じている「亜細亜主義」に関する論考である。ただし、政治学歴史学で一般的に理解されている「アジア主義」として宮台流「亜細亜主義」を論じることはしない。
その理由については、当日の議論で詳細を述べるが表面的な「亜細亜主義」という名づけに拘泥するよりも彼の議論の「本義」に踏み込んで考えるというのが当報告の主旨である。議論を先取りすると、宮台真司の「亜細亜主義」は、彼にとって、「〔文化的多様性を押し
流してしまう〕過剰流動性に対していかに合理的に抗うか」という課題の一環である。そして、彼の「亜細亜主義」に関する議論は表面的には多岐に亙るが、その中心主題は以上に挙げた課題にある。宮台は、過剰流動性が人も社会も「入れ替え可能性」で充たしてしまう状況に対し、(不可能事であることを自覚しつつ)あえて「天皇」や「亜細亜主義」、「ノスタルジー」、「子宮回帰」といった超越論的シンボルを持ち出して「入れ替え不能性」(全体性)を作り出すことを提案する。こうした議論の抽象面だけを抽出すれば、それなりに彼の議論には意義があるように見えるし、もちろん、全く意義がないとは
思わない(おせっかいにも取り上げるわけだが)。ただ、釈然としないものも残る。ゆえに、本報告は、宮台流「亜細亜主義」の意義と疑問点(釈然としない点)とを同時に見つめて行く作業になると思われる。

【主要参考文献】
宮台真司亜細亜主義の顛末に学べ』(実践社2004)
宮台真司大塚英志「何故、アジア主義を語るのか」(『新現実』Vol.3、2004.5)
宮台真司北田暁大『限界の思考──空虚な時代を生き抜くための社会学』(双風社2005)
宮台真司「全体性の消失──IT化に最も脆弱な日本社会──」
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=368&catid=4

【当報告に関連する報告者の文章】
「日本美術思想の帝国主義化──1910〜20年代
南画再評価をめぐる一考察」(美学会編『美学』213号、2003年6月)
「「大東亜美術」について」(『鹿島美術研究』年報22号別冊、2005年11月)
「「大東亜美術」としての《八紘之基柱》」(未刊 『美術史』投稿中)