あれこれ

まとめて。

眞鍋かをりのここだけの話: コオロギ オブ ジョイトイ

コオロギの死体を載せ、しかも「コオロギ オブ ジョイトイ」とコメントを付すセンスが秀逸。

仏教「超」入門(BOOKアサヒコムの書評)

何が「超」なのか、と訝(いぶか)りながら頁(ぺーじ)を繰ると、いきなりこんな一節に出くわした。

 僧侶や仏教学者は「かたや悟りはすぐそこだと言い、かたや悟りは遥(はる)か彼方(かなた)であると言い、かたや輪廻(りんね)があると言い、かたや生まれ変わりなどありえないと言う」。

たしかにどうかと思う状況。ただ仏教入門と称する本は大量に出ている。たぶんその多くは入門というより自分の考えを論じているのではないかと思う。

著者は以下のような姿勢のようです。

 諸行無常をペシミズムと看做(みな)したり、浄土、彼岸、仏国土を比喩(ひゆ)以上のものと捉(とら)えたり、輪廻の実在を主張したりする「伝統的」仏教への批判も鋭い。

これに関連して紹介したかったページがあった。誰か作家というかライターの方が、「日本では輪廻からの脱却のための修行(頑張り)が持ち上げられ称賛される、イチローや松井もそうだ」みたいな文章を書かれていた(頑張りというのは私の補った言葉です)。

そのライターの方の文章には、当然の暗黙の前提として「仏教は輪廻を肯定している」としている点と他に何か違和感を感じたのだが、途中でブラウザが異常終了してしまったのとアドレスを忘れたので今検索しきれない。

私の漠然とした記憶では、<釈迦は従来のウパニシャッド哲学を一応否定した形で登場しており、輪廻というものを否定している>と理解してよいように思っていたのですが、もうだいぶ前なので曖昧です。

斎藤貴男さんのポケットから−私たちはこのままでよいのか
『二十世紀を見抜いた男―マックス・ヴェーバー物語』という本を枕にふった、歴史認識の必要性、うぬぼれと自己陶酔、運命にひきずられることについての文章。といえるかな。
文中で他に挙げられた、黒井克行の『男の引き際』という本にはちょっとタイトルからしてあまり魅力を感じない。
香山リカの『“私”の愛国心』は、権力による殺戮(さつりく)と個人の自己犠牲が正当化されていくメカニズムを活写しているという。香山リカとは基本的に問題意識を共有しているように感じる(自分を同列に置くなんてうぬぼれた言い方ですが)。
そしてもちろんウェーバーの大きさを感じるが、それは乗り越えられるべき大きさなのだろうとも思う。ウェーバーもそれを期待しているはずだ。

 悪を避けられないものとして受け取る感性と「火垂るの墓」

ワニ狩り連絡帳(id:crosstalk)の、[映画]  『誰も知らない』 是枝裕和:監督という記事に触れて。

私は「誰も知らない」を観ていないのでなんともいえませんが、以下の表現に少し考えさせられました。

 わたしがこの作品を認められないのは、元の事件、もしくはこの作品の状況の背景にある「暴力*2」の存在をうやむやにしてしまっているから、と言ってしまっていいのかもしれない。次女は信じられないような暴力的状況の下で死に至ったのであり*3、この状況は『フランダースの犬』ではないのだ。この作品を現代版『火垂るの墓』などと評した人もいたが、野坂昭如の「反戦小説」を骨抜きにしてしまって、お涙ちょうだいファンタジーにしてしまった高畑勲の製作姿勢と、是枝裕和の製作姿勢とは、たしかに共通するものがあるだろう。

注の*2や*3はここではとくに触れなくてもすむと思いますが、映画「火垂るの墓」(ASIN:B000232BR0)についてそのような捉え方があったか、と気づきムムと感じました。一定の説得力を感じます。


ここから私の少し雑な考えを書きます。

暴力や悪といったものを、ただ外側から来るどうしようもなく避けられないもの・因果として避けられないものとしてとらえ、「天災」のように受けとめる発想というのは、日本においてのある伝統の一つなのかもしれない(やたらと日本の特殊性を強調する日本人論がはびこる風潮は好みませんが)。すべてを構造の問題に解消していく姿勢は、人間の自由な意志への尊重につながりにくい。


ただ、その他方で、何か事が起きると発生する犯罪者や特定のグループに対する糾弾や感情的非難もかなりのものだ(これは日本特有かどうかはわからない)。

こうした糾弾や感情的非難の背景には、国外でなく国内の人・団体に対して向けられることが多いことから考えると、「自分たちの中にそんな悪い奴がいるなんて耐えられない」「恥をかかせた」という感覚があるのかもしれない。つまり、自分(たち)の中に悪が存在しうることを認めたくないという感覚。

もう一つの背景としては、これまでの「すべてを構造の問題に解消していく姿勢」に対する反動もあってのことかもしれない。ここから外国人排斥の動きが出てくるのかもしれないが、少し考えると外国人排斥は、上の段落で述べたことも理由だろう。異物として排除、という。


人生万事塞翁が馬、という故事(あるいは格言)は、「いいことが起こっても悪いことが起こっても、結果は本人の責任ではない」という意味に受けとめるべきではないように思う。ウェーバーのいう責任倫理という概念を思い出す。どうにもならない部分があっても、その部分をも引き受けて踏みとどまる。


「遺伝と環境(歴史)と本人のせい」というときに、本人のせいという部分を軽視してしまってはいけない。
かといって感情に流されて人格そのものに対する断定的な評価を与えてもいけない。誰かを全面的に賛美する人は、誰かの存在価値を全面的に否定してしまう危険が大いにある。

 アムラー、シャネラー、眼鏡等ー

そして私のたった今の関心は、キング牧師の有名な演説をもじった形で「メガネメガネ」とメガネ以外の物を探し回るさまを述べること、そしてその述べ方をよりスタイリッシュに磨き上げることにあります。




 ……

私には夢がある。

いつの日か、
かつてメガネだった人の子孫と、かつてメガネでなかった人の子孫が共に食卓につき、

メガネを探す場合でも、他の物を探す場合でも、


メガネメガネ


と共にわめくことのできるときがくるという夢が。

 ……


この夢の前半は、既に実現している。
父祖の運転免許証に「眼鏡等」と記載されていたか否かにかかわらず、
私たちは共に食卓についているのだ。




ちょっと満足だぜ。

 「私はこういう者です」と名乗りをあげること

私がインターネットで自分の事を指し示す呼称としては、はじめにでも書いているとおり便宜上、「summercontrail」と名乗っています。文字を入力するのが面倒なかたは、略して「左近」とお呼びいただいてもかまいません。
しかしどちらかに統一しようか、するとしてどちらを選ぼうかと迷っています。

はてなダイアリー」というサービスの利用者が他のはてなダイアリーを利用したサイトに「コメント」を記入する際には、アカウント名(私ならsummercontrail)を氏名の欄に記入することで、自動的に氏名に(自サイトへの)リンクが張られるという利点があります。
これはsummercontrailと名乗る利点。

しかし、summercontrailは長くて入力しづらいという大きなデメリットがあります。そこで音を略した形で「左近」と名乗ってもいるのですが……混乱を招くし、summercontrailの字面が気に入ってもいるんですよね。


こんなところでつまずいてしまっていますが、いったん結論を出したらスーダン・ダルフール危機に関心を寄せるブロガーのリストに掲載しようと思っています。それか(by 〜)の部分を記載せずにとりあえず書こうかな。うん決めた。

サイト運営者のみなさんもよろしかったらどうぞ。こんな、皆さんが想像される以上にヘナチョコな私がすっげー勇気を出して載せるんですよ。街角で得体の知れない署名運動に住所・名前を書くより、ずっと確実で安全な方法ですよ(wikiは閲覧者全員が運営主体の立場に身をおけるから)。
リストページの上部に並んでいる「編集」のリンクから、ページの上の人を真似した書式で書けばいいみたいです。