中村哲医師とアフガン2

takase222009-08-28

アフガンでの米軍を中心とする外国軍の死傷者はどんどん増えている。
オバマ米政権がテロとの戦いの最前線に位置付けるアフガニスタンの戦況が一段と悪化している。米軍など外国軍の2009年の死者数は25日に296人となり、ブッシュ前政権の01年のアフガン攻撃以降、過去最多の年間死者数になった08年を上回った。米中央軍のペトレアス司令官は同日、ケンタッキー州の講演で、さらに戦いは厳しくなるとの見方を示した。民間調査団体iカジュアリティーズの集計によると、アフガンの外国軍死者数は08年で294人。今年は夏の時点でこの数字を上回った。現地ではアフガン大統領選に合わせた爆弾テロが相次いでおり、年間死者数はさらに増えると予想される。01年以降のアフガンでの累計死者数は1341人。国別では米軍が802人と最多、英軍が207人、カナダ軍が127人と続く。オバマ政権は今春に2万1000人の米軍増派を決定。年末までにアフガン駐留米軍は6万8000人規模となる予定だ。》
きのうの日経朝刊の記事だが、去年の数字を8月に更新するという急増ぶりだ。反米、反外国軍の感情がアフガン全土で強まっており、外国軍に対して戦うのはタリバンだけではなく、カルザイ政権与党の一部にまで広がっていることは前に書いた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090820
現実に押されて、政権与党勢力の多くが「タリバンとの対話」あるいは「タリバン穏健派との協力」を打ち出している。タリバンが外国勢力と協調するはずがないから、アメリカ主導の安定化はもう不可能だと思う。状況はベトナム戦争末期そっくりだ。

悪化の一途をたどる情勢の一方で、安定化に向かっている場所がある。
アフガン東部ジャララバードの北の地域だ。その安定をもたらしたのが、中村哲医師が主宰するペシャワール会が作った用水路である。
《福岡市の民間活動団体「ペシャワール会」がアフガニスタン東部で2003年3月から建設している農業用かんがい用水路がほぼ完成し、3日、24・3キロの全区間で通水した。総工費16億円を投じ、延べ60万人が建設に参加した用水路は、約15万人が住む3000ヘクタールの流域を潤す。すでに2500ヘクタールが小麦などが実る緑の大地に生まれ変わっており、同会はアフガン復興で大きな足跡を残した。
 アフガン東部ジャララバード近郊で建設を指揮する現地代表・中村哲医師(62)から3日夜、同会に届いた連絡によると、現地時間の同日正午過ぎ、ガンベリ砂漠の用水路終点まで通水した。中村医師は建設に携わった住民数百人を前に全線開通を宣言し、住民らは、イスラム教の聖典コーランの一節を唱えながら神に感謝の祈りをささげたという

 中村医師は「これで確実に人里らしくなっていくと思う」と喜びをかみしめている。
 同会は、橋や水門なども整備し、今秋、現地で州知事や長老などを招いて完成式典を開く。中村医師は、用水路の維持・保全や水門の調整などを指導するため今後も現地にとどまるという。》(2009年8月4日 読売新聞)
写真は、《アフガン東部に完成した農業用水路で最後の水門を開放し、通水を喜ぶ現地作業員ら=3日午後(ペシャワール会提供)》
中村さんは「この国を根底から打ちのめしたのは、内戦や外国の干渉ばかりではない。最大の元凶は、2000年夏以降顕在化した大旱魃である」と考えている。(『アフガニスタン・命の水を求めて』NHK出版)完全な食料自給ができた国がわずか5年で自給率を6割以下に半減させた。農地の砂漠化で廃村が広がり流民が急増した。
300万人にもなるといわれる難民は、共同体の絆からも離れ精神的にすさんでくる。「カネ」か「神」しかなくなり、盗賊か物乞い、あるいは武装ゲリラになっていく。一年前ペシャワール会の伊藤さんが殺されたが、その犯人にも難民キャンプ出身がいた。(政府はタリバンの仕業と宣伝したが、現地では否定されている。)
用水路の建設はこの根本問題に切り込む意味を持つ。
60万人もの人々に雇用を作って多くの難民を帰郷させた。そして十数万人が食えるようになり、共同体が再建されつつある。
きのう紹介したDVD『アフガンに命の水を』のなかで、中村さんがこう言っている。
《この地域が豊かな平和な地域になれば、これが一つのモデルとなって、アフガニスタンに広がっていけばいいんじゃないか。これで本来のあるべき目的が見えてきた》
この地域からアフガン再建のモデルを作っていこうという壮大な構想である。
用水路は全長24kmだが、06年3月には10km部分が試験通水している。その日、中村さんは、感動の声を上げる地元の人々と水路を水が進んでくるさまを見つめていた。
《思えば、医師たる自分が、本業を放り投げて、この水路現場の総指揮をとっていることが不思議である。天命とはいえ、数奇な定めである。こんな世界の片隅で、全く畑違いの仕事に精を出しているのが突然おかしくなってきた。通水を確認した途端、緊張が緩んだのか、苦笑と喜びがこみ上げてきて、哄笑を抑えることができなかった。1984年に医師として現地赴任したとき、22年後にこんな場面に居ようとは夢にも思わなかったからである》(『命の水を求めて』)
今月3日の全面通水の日も、中村さんは哄笑したのだろうか。