光市母子殺害事件は判例に照らせば死刑は不当である件

  
 昨日付けの予定通りに、光市母子強姦殺害事件についてです。
 光市母子殺害事件とは、十八歳の男が強姦目的に本村宅に侵入し、二十三歳の婦人に抵抗されたため殺害し死姦。泣きながら母親のほうに這ってきた子供を床に叩きつけて、それでも黙らないからと首を絞めて殺し、天袋に投げ入れた事件です。
 地方裁判所では無期懲役の判決で、検察の控訴を高等裁判所は棄却し、最高裁判所で検察の上告に対し、高裁の判決破棄で差し戻しをしました。余程の事情がない限り、死刑になることはまず間違いないでしょう。
 民主主義下の自由主義社会において、近代法を採用しているならば、客観的に判断して、この事件は「無期懲役」が妥当な判決であると言えます。
 罪刑法定主義において、殺人は最高刑は死刑になるけれども、日本の判例主義から考えると、法務に関わるほとんどの人間は、妥当性は死刑ではなく無期懲役にあると考えるでしょう。法の下の平等ということを考えれば、同じ程度の罪状で、同じ程度の反省で、同じ未成年の量刑相場が無期懲役であるとすれば、この被告人に死刑判決が下されるとすれば、一種の魔女狩りとも言えなくもありません。まぁ、私は「反省」を判決に考慮に入れるのは疑問を持っていますが。
 まぁ、素人もいいところなんで用語的に間違っているところはあるかもしれませんが、これまでの判例と量刑相場から考えれば、未成年に対して死刑ということはなかったでしょう。世論には不満がありながらも無期懲役でおさまっていたことでしょう。本来ならば無期懲役が妥当とされていたものが、死刑判決が出て、国民の大多数が喝采をあげているというのが現状です。
 この被告人をどんな内容であれ擁護するような意見を言おうものなら、物凄いバッシングを受けることでしょう。例えば有名人のウェブログなら、いや無名人であったとしても、悲惨な炎上を遂げることは想像に難くありません。「被告人を殺せ」という意見以外は排除される状況です。
  
 何故にこのような状況になったのでしょうか?
 これは、ひとえに被害者の遺族である本村洋が、マスメディアにおいて、裁判所が死刑にしないなら自らの手で殺害する旨の、殺害予告で司法に対する脅しを行ったことにあります。
 これはつまるところ、昨日付けのテクストにて書いた、自然法としての復讐権をもって、実定法としての近代刑法における国家による暴力装置の独占に対する揺さぶりをかけた、ということになる。そして、それは、ただ恨みの感情からの発露で出た「殺意」ではなく、極めて論理立った法哲学を背景にしたものでした。
 本村は当時二十三歳であり、その歳であれだけの論理展開を構築し、それを理路整然と社会に説いたわけだ。非常にインテリである。そうインテリなのです。
  
 被告人のほうの、全く反省の感じられない振る舞いが次々に明らかにされ、挙句に、被告人のインテリジェンスを感じさせる言動は、本村を挑発するために引用したドストエフスキーなど、世間の神経を逆撫でするようなものしかなく、本村にとっては好都合であったとも言えます。もっとも、本村自身の神経が一番逆撫でされたことでしょうが。
 さらには被告人の暴力的だったといわれる父親の福田も、本村に対して「寂しいなら再婚しろ」と言ったと言われており、まぁ、完全に自滅していったわけです。
 追い討ちをかけるように、被告人の弁護士である安田も、口頭弁論を「ドタキャン」するなどの稚拙な法廷戦術により、着実に世間の支持を失っていくオマケまでつけました。
 菊田早苗の父親であり死刑反対論者の菊田幸一も、本村に対して暴言を吐くなど、援護射撃のつもりが被告人を蜂の巣にしているような状況です。
 かくして、世間の熱狂的な同調とともに、本村支持、「被告人を殺せ」という世論が形成されて言ったわけです。
  
 被告人側の悉く反感を買う言動の大きさも無視は出来ませんが、この状況が生まれた一番大きな理由は「本村がインテリであった」。これに尽きます。
 被害者の遺族である本村が、二十三歳にして、法理学を踏まえて、世間の心と司法を揺るがす「脅し」をする能力があったという、これがなければ、今のような状態にはないいなかったでしょう。
 被告人は、死刑ではなく、無期懲役であっただろうということです。
  
 小林よしのりの登場やオウム事件以降、かなりの勢いで風向きが変わり、それが本村への追い風になったという点も非常に大きいのですが、本村の個人能力がなければ、こうはなっていなかったでしょう。
 それはとりもなおさず、かなり怖い事実を示しています。
 しかし、怖すぎるためか、誰もその事実を指摘していません。
 つまり、被害者の遺族が本村のようなインテリであった場合は、被告人は死刑になるのに、本村のようにインテリでなかった場合には、被告人は死刑にならない、ということです。
 法律は、万人に平等になど働いてはくれないのです。
 そもそも論として、これまでの判例から鑑みれば、妥当性は無期懲役であったのですから。
 被告人にとって見れば、被害者遺族が本村でなければ、インテリでなければ、死刑になどならなかったのです。
  
 そのことからも、私は昨日付けのテクストの一番最後に書いたとおりの意見になります。
 国家は復讐権の代理執行をしなければならないという原則ですね。
  
  
  もうちょっとだけ関連ネタが続きます。