■
- 『動物化するポストモダン オタクからみた日本社会』 東浩紀(講談社現代新書)
- 『フーコーの振り子 上・下』 ウンベルト・エーコ/藤村昌昭 訳(文春文庫)
- 『1984年』 ジョージ・オーウェル/新庄哲夫 訳(ハヤカワ文庫)
- 『寺山修司幻想劇集』 寺山修司(平凡社)
課題図書を買いに行ったらこのザマ。フーコーの振り子なんか単行本持ってるのにさ。持ち歩きながら読みたいからって。寺山修司は『奴婢訓』目当て。そいじゃヤなものからとっとと片付けるか。
というわけで課題図書の東浩紀を読んでいるんですが、意外や意外、とても面白く読める。「コレを読まずにオタクを語るべからず」と友人に力説されたもんで課題図書なわけですが、まあオタクを語るつもりはないし、前半を読んだ限りではどちらかというと男性オタク中心の話っぽいものの(私見では、男性オタクと女性オタクはかなり違うと思うんですよね)かなり腑に落ちる部分多々。数年前『郵便的不安たち』が違和感どころか嫌悪感さえ感じてどうしても読みきれなかったんですが、あのすさまじい拒否反応はなんだったんだろう。
でもね、やっぱり「70年代以降の文化的世界」というだけじゃ「ポストモダン」という言葉の意味が全体としてよくわからない。前からこの用語、あちこちで見るわりによくわからなかったんですよね。「近代の後から来るもの」って言ったところで、果たして70年代以前の日本は「近代」だったのかと。時代区分でなく、いわゆる文化的な、さらに限定すれば思想的な意味での「近代」は紛れもなく西洋の価値観で、そこには土台としてキリスト教があるわけですが、これが感覚としてすっと理解できる日本人はまずいないと思う。なもので明治以降、「近代」思想はちょっと勘違いしたまま輸入されてきたと思うんですよね。で、その勘違いのまま突っ走っちゃって破綻したのがあの戦争であり、戦後には今度はアメリカ的な合理主義が入ってきたわけだけど、これもやっぱりどこかいびつなまま成長し、その無理が出てきちゃって、何かいろいろはじけ、捩れ壊れ、白け果てた今があると思うんですよね。70年代以降は転換期ではあったと思うけど、それ以前との文化的断裂はそれ以前の無理からくる破綻だとすれば、来るべきものが来たというべきじゃないかなあ。「近代」はなかったわけですから、「ポストモダン」もないわけです。70年代以降の文化が、それ以前とは完全に異質な文化とは私には思えないんですけど。
……って、とりあえず最後まで読もう。このテの分野は全くの不勉強地帯だから、よく知ってる人にはちゃんちゃらおかしい世迷い事吹きまくってる可能性大。