「渡米実業団」日録

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 今から約100年前の1909(明治42)年、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名が3ヶ月間にわたりアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献しました。
 この日録では「渡米実業団」(Honorary Commercial Commissioners of Japan to the United States of America)と呼ばれた日本初の大型ビジネスミッションの日々の出来事を、『渋沢栄一伝記資料』に再録された資料等で追いながら、過去に遡る形で掲載しています。

 1909(明治42)年10月10日(日) マンリアス・スクールにおけるレセプションで、“The Mikado's Empire”の著者グリフィスによる歓迎の演説 【滞米第40日】

竜門雑誌』 第269号 (1910.10) p.22-28

    ○青渊先生米国紀行(続)
         随行員 増田明六君
十月十日 日曜日 (晴)
午前中は順序なし、但市内各教会は開放して一行を歓迎すべければ、各自自由に礼拝せられん事を希望する旨、米国側委員より通報ありしも、青渊先生は来訪者等の為め在宿せられたり。
午後一時半出迎自動車に乗り、青渊先生始め一行不残列を為してマンリユース町に向ふ、途中紐育セントラル・ハドソン・リバー鉄道会社のヤードを過ぎ、車上より作業場を一覧して、午後二時私立陸軍士官学校に到着す、此学校は前日一行の驚きたる校長ベルベツキ大佐の経営するものにて、私立にてはあれど、ウエスト・ポイント兵学校と同様、卒業生は陸軍少尉に任ぜらるゝ特権を有せり、現在生徒二百名、東京江副廉造氏の令息江副氏在学せり、校庭の一隅に日本式の庭園あり、茶室などの設けありて、校長の趣味甚だ床しく感ぜられたり、二時半校長に依りて催されたるレセプシヨンを終り、夫れより導かれて講堂内に到り、階上の食堂に於て饗応を受く、饗に先ちベルベツキ校長起ちて挨拶を為し、次ぎにイサカ大学講師グリツフイス博士起ちて
  一八五〇年デラウヱア河に於て軍艦サスカンナ号の進水式行はれたり、当時予が父は石炭商なりしが、六歳の予を連れて式に列したるを今尚記憶せり、此軍艦こそペリー提督が引率して日本に到りし船なり、其後予は井伊掃部頭の送られたる使節に接したり、又横井小楠氏の送られたる書生も見たるが、ポーツマス条約の際、其衝に当られたる二人は其時の書生なりしと云ふ、其後予は松平春岳公に聘傭せられて越前に赴きたり、日本に於ける西洋流の学校の始めは予の建たるものなり。
  当時日本に於て商人の状態は、実に気の毒の位置にあり、反之武士は非常なる特権を有したりしが、渋沢と云ふ一青年が、国家の興廃は実業の盛衰に基くものなりとの卓識を抱き、政府に建白書を奉ると共に、権職を捨てゝ野に下り、賤まれたる商人の中間入を為したり、日本の今日あるは同氏の力与て大なりと云ふべし。
  予は日本人を克く解するものと自信す、日露戦争の始めに当て、校長ベルベツキ氏と共に必ず日本人の勝利を獲べき事を談じたり、日本の将来に付て言はば、日本は他国に征服せらるゝものにあらず、米国も亦然り、日本の打勝たんと欲するものは露国にあらず、米国にあらずして、隣国支那の文明を開拓せんとするに在りとす、故に支那に向て宣教師を送り同国の開拓を図る米国と、日本とは全く同一方針に在るものなり、華盛頓政府は賢明なる人士を以て組織せらるゝに就き、必ず此方針を以て為すなるべし、此度日本より米国に駐在せらるゝ内田大使は有名なる支那通なれば、尚更以て日米両国間に都合良かるべきを信ず、云々。
と述べ次きに青渊先生起ち一行を代表して、歓待に対し謝辞を述べ
  古き米国の二友人と昔物語を為さんと欲す、吾々一行の友人よりも古き米国の二友人と一堂に会し、昔を語るは予の頗る欣慰する処なり。
  グリツフイス博士は日本の維新前後の歴史に精通せる人士なり、外国人の著はしたる日本に関する書物は多大なるべけれど、同氏の著の如く日本の真想を書きたるもの他にあらざるべし。
  同氏の予に対する溢美の褒辞は、予の克く当る処にあらざれど、官を退きて民間に下り実業の隆盛を図りたるは同氏の説の如し。
  茲に一言を挟み度きは、井伊大老の行動なり、大老は日本の国家に対しては、開国主義を執りて多大の貢献を為したる偉人に相違なきも、其為政の方針余りに秘密に過ぎたるを以て、知らず知らず愛国の志士をして鎖国主義を取るの止を得ざるに至らしめたり、当時日本に向ひ通商を求むる外国の中には、米国の如き誠心誠意未開の日本を文明に導かんとしたる国もあれば、又通商条約を強請して、其実侵掠主義を逞ふせんと欲したるものあり、然るに井伊大老は一方に於ては何れの国に対しても秘密の間に条約を締結し、一方に於ては憂国の志士に対し乱りに圧迫を加へたるを以て、益々志士の疑惑を深からしめ、遂に水戸浪士の為めに殪るゝに到りたるなり。則ち彼の鎖国主義は、不道理を以て条約を訂結せんとしたる外国に対する方針にして、米国の如き人道を重んずる国に対する主義にあらざるなり、之が実例を挙ぐれば彼の伊藤公爵・井上侯爵の如き、当時に於ては鎖国党なり、予も亦同主義なり、其後同公侯は英国に赴き帰朝したるや、開国主義を執れり、予も亦同様なり――云々。
  爾来日米両国の親善は密着しつゝあるも、猶将来益々之が増進を期せざるべからず云々。
と演べられ、饗応終りて校内の礼拝堂に於て学生の礼拝式に参列し、畢て別室に於て学生の軍楽を聞き、且日露戦争の活動写真を見たり、此写真は本校学生が日露両軍に分擬して雪中に勇ましく戦闘する様を写したるものにて、白馬に乗りて日本軍を指揮するものは校長ベルベツキ大佐其人なり、午後六時茲を辞してホテルに帰着し、晩餐の後列車に帰着せられたり。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.181-182掲載)


渡米実業団誌』 (巌谷季雄, 1910.10) p.191-247

 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
     第十六節 シラキュース市
十月十日 (日) 晴
休日の事とて午前は無事、唯市内の各教会は、一行を歓迎し居れば各自希望に依り、随意参拝ありたしとの事なり。午後一時出迎の自働車にて、一同マンリウスに向ふ。午後二時三十分マンリウス学校(兵式教育の中学程度学校にして、フルベッキ中佐の管理に係る)に於て、フルベッキ中佐夫妻の接見会あり、後寿司・羊羹等の饗応あり、主人中佐の心入れも偲ばれて嬉しかりき。席上グリフヰス氏(「ミカド帝国」の著者)の演説、団長の答辞あり。我が鎖国は必ずしも故なきにあらざる事、及び日本は外人の必ずしも侵略主義にあらざることを悟るや、翕然として交を西洋諸国に結ぶに至りし事を述べ、大に感動を与へたり。夜に入り列車に帰り、スケネクタディに向つて発す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.196掲載)


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