サクラノ詩 嘘評論とその周辺 -Ecole de Davis-

夏目圭『向日葵』に寄せて

 今の時代に新しい芸術は可能なのだろうか。可能ではあるが、しかしそれは非常に稀有な例である。「現代」というのは短命である。消費されるように芸術が生まれては消えてゆく。ほとんどの経済主体は長期的なスパンで価値判断をしない。情報が氾濫している時代の中で「見られる」芸術というのは高尚であるものよりも、俗的な需要を満たすものである。金になる作品に絶対性はないが、流行を追い、技術を研鑚していけば運よく当たる作家もいる。そして、現代において「作家」と呼ばれている者のほとんどが、消費文化のモードの上に成り立っているのは疑う余地がないだろう。現代において文化と呼ばれているものは一過性の中毒のように市場に出回りマス的に正しさを主張する。伝統や権威や高尚なるものは金にならなくなっていく。畢竟それはシェアの問題となる。ならば、誰にも見られずに秘蔵されている芸術作品よりも、多くの人々に見られる通俗的な作品が正しいのか。その通りである。だからキュレーターは、真に芸術的価値のある作品とそれを描ける芸術家をいかにして世界へ発信するかが問われる。その成功の一例として、御桜稟と『墓碑銘の素晴らしき混乱』が挙げられるだろう。日本人でプラティーヌ・エポラール賞を最年少で受賞、そして瞳に狂気を宿した美しい少女として御桜稟がメディアの前に姿を現したのは、彼女の眠れる才能を発掘した某キュレーターの計算であり策略である。ただ天才が現れただけでは人々は見向きもしない。その場合にはアート業界に関わる人間だけがその天才の存在を認め、賛美するのみである。だから、人々を魅了するカリスマ性やその場を盛り上げるパフォーマンスによって作品と芸術家は登場させられる。それはただの発表の場というよりは演劇の舞台に近い。長山香奈主導のもとに行われた『櫻達の足跡』の改変、その現代アート的な手法は、一見すると醜悪でインパクトに欠けるものであったが、彼女もまたその場にあるライブ感と演出により自分の作品が芸術であるかのように見せるための演説をして見せた。作品が芸術であるためにはまず、見られることが大前提となっており、また、どんなものでも芸術として「見られる」可能性があるということを『櫻達の足跡』の一件は示唆している。人から見られなくなった作品、忘れ去られた作品は死んでいる。そういう意味では、故草薙健一郎が設計した櫻達の足跡はすでに過去の遺産となりつつあった。ムーア財団やその他美術関係者は、過去の芸術家が残した技法の再構成ではなく、新しい芸術表現を追い求める。芸術は過去に築き上げられた芸術の模倣であってはならない。しかし、現代に至っては一通りの方法はすでに試されておりこの期に及んで新しい芸術が生まれることはほとんどありえない。であるから、破壊的な無垢性が前面に出される現代アートが芸術と呼ばれるような袋小路に追い詰められているのが昨今のアート業界の現状である。
 それらのような印象派の勃興から始まる伝統性と大衆性のあらゆる葛藤を、夏目圭の『向日葵』は表していたと言えるだろう。芸術や経済の流動性、長大な時間の流れと短命の儚さ、権威への挑発や二重の無垢性、演出と孤立、死と生、語りえぬものへと手を伸ばさんとする焦燥と情熱……『向日葵』とは両極端に位置する概念が一枚のキャンバスの中で衝突し、胎動し続ける、まさに「生きている」作品であった。葛飾北斎歌川広重のように西洋的でも欧米的でもない、個人の独自性から生まれた夏目圭の『向日葵』は直感的に、多くの人々の心に訴えかけている。それは技法、構成、色彩感覚、形態描写などを経験として積んできた眼の肥えた批評家や画家だけが理解できるというようなものではない。夏目圭の『向日葵』は見る者の心象のなかに自然と立ち現れ、その時その瞬間において永遠に揺らめいている。草薙健一郎が世界全体の空虚、あるいは幸福を表すことに自覚的であり、そしてその通りに人々に受け取られたのとは対照的に、夏目圭の『向日葵』はある一点を凝視し続けることによって世界全体の共通項を表し、そしてその通りに人々に受け取られた。夏目圭本人がそれに自覚的であったかどうかは定かではないが、彼の目に映った世界が、そのまま見るものの眼に投影されたかのような錯覚を覚えるのは偶然ではない。この二人の天才に共通して見られるのは宮沢賢治の汎神論的な思想および詩作方法の心象スケッチだろう。草薙健一郎は思想の反映として絵を描くことに自覚的であり、『向日葵』から感じられるのは目に映っている風景そのものを写し取ったかような印象だ。思想と表現、二人の天才は別々の道から補完的に宮沢賢治に近い立場を取っていたと言えるだろう。心象スケッチと呼ばれるものは詩のみならず、絵画や音楽、陶芸などにおいても表現されえるものである。それは表現されたものとして我々の目の前に存在しながら、同時に、我々の心象そのもの、あるいは、作者の心象そのものとして現れる「心象の具現化」とでも言うべき作品である。草薙健一郎の世界全体の空虚を表した『横たわる櫻』、そしてそれに添えられた一篇の詩『櫻ノ詩』に見られる幸福の意志、それから夏目圭の『向日葵』の超両義性――それらは場所と時間を超えた魂の素描として我々人類の心象を永遠にとらえ続けるだろう。
 夏目圭はその後の日本の、世界の芸術界の次代を担う存在になるはずだった。だが、そうとはならなかった。故夏目圭の意志を継ぐかのように御桜稟が世界で活躍しているが、夏目圭が描くような作品は夏目圭にしか書けない。そして御桜稟が描く絵は御桜稟にしか書けない絵である。世界は一人の天才を失い、一人の天才を手に入れた。彼女の躍進は留まることなく、新しい芸術作品が次々と発表されていっている。それらの作品は御桜稟の世界において体系化されていくが、芸術史上で体系化されるような代物ではないだろう。御桜稟の世界はそれ自身によって築き上げられる美の神殿だからである。そして、もし夏目圭が存命していれば、彼もまた、彼にしか築き上げられないような芸術の体系を成していっただろう。しかし、それは壮麗な建造物のようなものではなく、あらゆる民族、言語の垣根を超える普遍性を持った、野ばらに咲く花々のような作品群となっただろう。それはありふれた花であると同時に、世界に一つしかない花なのである。世界が一つの作品によって結ばれる……それを可能とする唯一無二の天才は、作品をわずか一作だけ残してこの世を去ってしまった。彼が咲かせるはずだった花々……それらがない不毛の荒野を、我々は二本の向日葵をたずさえながら、歩いているのである。
 故夏目圭氏に、哀悼の意と向日葵の花束を捧げるとともに、ここで筆を置く。


著:デイビス・フリッドマン