2016.5.1

 『 小さな泉から命の川へ 』(エゼキエル47:1〜12)

 ある日わたしは夢を見ました。その夢は小泉町教会のバプテスマ槽から大量の水があふれ流れ、礼拝堂をいっぱいに満たし、その水が外へと溢れ出る夢でした。びっくりして目覚めたのですが、起きてからしばらく心の興奮をおさめ切れず、眠ることができませんでした。そして、その時示された聖書の箇所が本日のエゼキエル書の御言葉でした。
 さて、エゼキエルは神の使いに導かれて神殿に入る幻を見ました。神殿に入ったエゼキエルは、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、大量の水が神殿に流れていくのを見ることになります。これまで何度も何度も神殿の入り口に連れ戻されていたエゼキエルでしたが、気が付かなかったほどの湧水でした。そこで、エゼキエルは御使いの声に従って水が流れている神殿を歩きながら、その水の水位を測ることになります。最初は、水がくるぶしまで達し、その後、膝に達し、次は腰まで達していきます。そして、もはや渡ることのできない川となり、その後は泳がなければ渡ることのできないほどの深い川に変えられたことが記されています。それからその水は神殿から流れ出て、至る所を覆うことになります。その川の水が通ると、死んでいた土地に木々が生え、汚れていた水は綺麗な水に変えられていきました。“この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。”(9節)ここでイエス様の言われる言葉を聞きましょう。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)また「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:38)・・・わたしたちを癒し、生かし、命をもたらす水こそ、聖霊です。この世の誰でも聖霊に満たされる時、そこには大いなる変化を経験することになります。愛する神の家族の皆さん、わたしたちはイエス・キリストの十字架の愛に贖われ、神の子とされ、今は聖霊の宿られている神の神殿であることを覚えましょう。
わたしには夢があります。毎週の神の神殿である小泉町教会の礼拝から命の水が湧き出て、礼拝に集う一人一人が命の水を飲み、聖霊の恵みの川に浸されること、そこから神の家族の毎日が聖霊の命の川で自由に泳げる生活となりますように、そして神の家族から流れていく命の水が世界を変え、死んでいた人々を生かし、世界を福音の命で潤すことになりますように・・・。ハレルヤ!

2016.5.1

 〜 病床の神の家族のために 〜 
“主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです”(ヨハネ福音書11:3)        
“信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。”(ヤコブ5:15)
 先週は二人の兄弟がそれぞれ手術と感染症の治療のため入院されることになりました。早速神の家族に祈りを要請するメールを送り、電話をかけました。牧師の牧会活動において最も緊張する時、心を配る時こそ神の家族が病気にかかる時です。いかに素晴らしい信仰をもっていようと病気を前にして不安を覚えない人はいないでしょうし、死を恐れない人はいないはずです。一人の病気が及ぼす影響は多大なもので、まずはその人自身、それから家族、知人、そして教会共同体にも及ぶのです。ただし、聖書が教える病気にかかるということが、ただ単純に悪いこと、悲しいことではないこと、かえって神の栄光が現れる恵みとなることを心掛けましょう。
 イエス様は愛していた兄弟ラザロが重い病気にかかっていることを知らされながらも、すぐさま駆けつけることはなさいません。むしろ無視するかのように振る舞われます。マリアをはじめ周りの人々はイエス様の態度から冷たさを感じていたことでしょう。しかしそこには「復活信仰」の確かさを求められていたことが示されています。とりわけ聖書には神の家族に病人の救いのための「信仰に基づく祈りの力の素晴らしさ」を知らせようとされる御心が明らかにされています。2016年度の歩みを始めようとする神の家族の皆さん、「信仰に基づく共同体の祈り」が人を癒し、神の業を成し遂げる力であることを教えようとされる父なる神の計画に応える群れでありますように・・・。

2016.5.8

 ハレルヤ!いつも私たち家族のためにお祈りとご支援をしていただき心から感謝いたします。福岡での学びも残り1年となりました。1日1日をさらに大切にして、神様に従順に仕え歩んでいきたいと思います。4月14日の夜に熊本県で大きな地震がおきた時は、主人が病院でのアルバイトがあり、自宅には私と子供たちしかいませんでした。地震で家が揺れはじめたと同じ時に、携帯電話の地震速報のメールが届きました。福岡県でも震度3〜4ほどの地震があり、寮は4階ですのでかなり揺れました。そしてどんどん揺れが強くなっていきました。この時には、まさか熊本県がとてもひどい状況だということは知ることが出来ず、次の日の朝にテレビを見てとても驚き言葉になりませんでした。それから4月16日に更に大きな地震がおきました。この時の地震が本震だったため、14日の時より揺れがとても強くその後も何度も余震があり朝方まで眠ることができませんでした。これまでにない不安の中で福岡にも大きな地震がおきるかもしれないと考え、また祈りながらも恐れていた私に神さまは、今私が置かれている状況を教えてくださいました。私はただただ恐れていただけで、熊本県の方や大分県の方がどれほど辛い思いをされているかをしっかりと見ることができていなかったのです。その時に私が今できることは、被害にあわれている方々のために祈り続けることだと改めて思わされました。そして東日本大震災で被害にあわれた方々や、またたくさんの自然災害で被害にあわれた方々のことをいつも覚えお祈りをし、支援を継続して忘れることがないようにしていかなければいけないことも強く思いました。これからも私が出来ることをしていきたいと思います。   
                     M.Y 姉   

2016.5.8

 『世界の片隅で起こる主の癒し 』(使徒言行録9:36-43)

 本日の聖書箇所では、ヤッファの街で亡くなったタビタという婦人の弟子をペテロが訪ね、蘇らせる奇跡が記されています。この話では、服を作ってはやもめたちに与えていた忠実な奉仕者のタビタ、信仰をもって主のわざを引き継いだペテロ、そして神がタビタを助けてくださると堅く信じていたヤッファの教会共同体が出会い、そこに神の癒しの働きが起こります。
聖書では「弟子」と呼ばれるタビタですが、その献身ぶりは街角の小さな教会の中でしか知られていなかったようです。他にも同じように自分が住んでいる小さな場所で我が身を捧げている人々はたくさんいます。ヤッファの教会の姿は私に、自分がこれまで関わってきた諸教会をいろいろな意味で思い出させます。それらは、広く名前が知られてはいませんが、それぞれが置かれた小さな場所でキリストに忠実であるべくひたすらつとめてきています。ごく普通の人々が普通のつとめを果たしている、普通の環境の中でも、みなが神のみわざに対して心を開いているなら、彼らは普通を超えた教会なのです。主の復活のできごとから2000年たった今も、わたしたちはその意味を忘れません。「キリストが今も生きて、世における主の業を続けておられる」という希望を常に抱いて生きる私たちは、「イースター・ピープル」、常にイースターを生きる人々であり教会です。
 タビタ、ペテロ、そしてヤッファの信徒たちが日々行っていたのは病院で患者さんに付き添う牧師さんのような役割で、今では「ミニストリー・オブ・プレゼンス」と呼ばれる奉仕です。「プレゼンス」は「そこにいる」こと、他人とともにいるために自分の時間を使うことです。タビタはやもめたちの中にいて、彼女たちの必要を満たしてあげていました。タビタ自身に癒しが必要になったときは教会の兄弟姉妹が彼女のためにペテロを探しに出かけました。
この教会でも、英会話教室やファミリーキャンプ、教会学校や諸集会、そしてこれから始まる「小さな泉の村」に自分の時間を割いて共に集まるみなさんの活動から癒しが生まれています。一方、誰もがきっとこの教会で自分自身が癒された経験を持つでしょう。神の癒しが世界のこの小さな場所で行なわれている証しをどうぞ他の方に伝え、教会へ誘ってあげてください。
              ローラ・フーシー宣教師

2016.5.8

〜 息子との幸せな時 〜
 先月から毎日の楽しみが一つ増えました。それは息子とのディボーションの分かち合いです。一日を終え眠りにつこうとする息子との約10分間の御言葉の分かち合いは親子の対話にとどまらず、自分自身の霊性訓練にも大きな恵みとなります。まだ中学1年生ではありますが、父親との交わりを通して聖書の読み方の成長や御言葉を黙想することの楽しさに気づいてくれる姿を見ると自然に笑みがこぼれます。
“どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。(詩編119:9)”        
 わたしたち小泉町教会の子どもたちが毎日御言葉に触れ、御言葉から知恵を得、神の御心を選んで歩むことができればいかに素晴らしいことでしょうか。わたしたちを取り囲む世界は、絶えず社会の風潮に合わせることを求めます。いつの間にかそれが優先順位となり、わたしたちも必死になって時代の流れや共通の価値観に合わせようとしているのが当たり前になっているのかもしれません。しかしここでもう一度立ち止まり“イエス様だったら?!”と尋ね確かめて見ることです。とりわけわたしたちの愛する子どもたちの将来のために、子どもたちが神の国と神の栄光のために用いられるビジョンのために・・・。息子と御言葉の分かち合いがいつまで続くか分かりませんが、できる限り長く続けたいと願うのは欲張りすぎでしょうか。