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徒然草 (新訂ブログ版) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-10-16

つれづれぼっと

インターネットが怖いぼくですが、昨日からネットデビューすることにしました。

http://twitter.com/tsurezure_bot

手始めにtwitterのロボットを作ってみました。よくわかりもしないまま作ったので、心配なのですが、もしよかったらfollowしてください。

2009-07-19

脱稿

徒然草』のホームページをリニューアルしました。

徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)

このブログ(?)は、これで終了ですが、これからもどうぞよろしくおねがいします。

跋文

■ 原文

底本 跋文

這両帖、吉田兼好法師、燕居之日、徒然向暮、染筆写情者也。頃、泉南亡羊処士、箕踞洛之草廬、而談李老之虚無、説荘生之自然。且、以晦日、対二三子、戯講焉。加之、後将書以命於工、鏤於梓、而付夫二三子矣。越、句読・清濁以下、俾予糾之。予、坐好其志、忘其醜、卒加校訂而己。復、恐有其遺逸也。

慶長癸丑仲秋日黄門

光広

上、訳文

這ノ両帖ハ、吉田ノ兼好法師、燕居ノ日、徒然トシテ暮ニ向ヒ、筆ヲ染メテ情ヲ写スモノナリ。頃、泉南ノ亡羊処士、洛ノ草廬ニ箕踞シテ、李老ノ虚無ヲ談ジ、荘生ノ自然ヲ説キ、且ツ、暇日ナルヲ以テ、二三子ニ対シ、戯レニ焉ヲ講ズ。加之、後ニ、将ニ、書シテ以テ工ニ命ジ、梓ニ鏤ミテ、夫ノ二三子ニ付セントス。越ニ、句読・清濁以下、予ヲシテ之ヲ糾サシム。予、坐ニ、其ノ志ヲ好シ、其ノ醜ヲ忘レ、卒ニ校訂ヲ加フルノミ。復、其ノ遺逸アランコトヲ恐ルヽナリ。

慶長癸丑ノ仲秋ノ日黄門

光広


■ 現代語訳

この徒然草上・下二巻は吉田先生が、暇な毎日に、だらだらしながら人生の黄昏に向かって、心に浮かんだ妄想を書き写したものである。最近、堺市儒学者・三宅寄斎がこたつで脚を伸ばしながら、老子の虚しさを話し、荘子の自然を説明し、暇な日には、二、三人の弟子に対して、徒然草の講義を行った。それでは飽きたらず、後に、徒然草を書き写して、印刷屋に注文し版下を作り、その二、三人の弟子にくれてやった。その際に句読点や清音、濁音、その他の校正を行った。私はなんとなく、その経緯を気に入って、自分が未熟なことを忘れて、すぐに校訂を入れただけだ。また、この底本にやり残しがないことには恐れを感じるばかりである。

一六十三年 八月十五日 中納言

烏丸光広

第二百四十三段

■ 原文

八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。


■ 現代語訳

八歳の私は父に、「お父ちゃん。仏様とはどんなものなの」と聞いた。父は、「人間が仏になったのだよ」と答えた。続けて私は、「どんな方法で人は仏になるの」と聞いた。父は、「仏の教え学んでなるんだ」と答えた。続けて私は、「その仏に教えた仏は、誰から仏の教えを学んだんですか」と聞いた。父は、「前の仏の教えを学んで仏になったのだよ」と答えた。続けて私は、「それでは最初に教えた仏は、どんな仏だったのですか」と聞いてみた。父は、「空から降ってきたか、土から生えてきたのだろう」と答えて笑った。後日、父は、「息子に問い詰められて、答えに窮したよ」と、大勢に語って喜んでいた。

第二百四十二段

■ 原文

とこしなへに違順に使はるゝ事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲する所、一つには名なり。名に二種あり。行跡と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味ひなり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒の想より起りて、若干の煩ひあり。求めざらんにには如かじ。


■ 現代語訳

人が性懲りもなく苦楽の間を逡巡するのは、ひとえに苦しいことから逃れて楽をしたいからである。楽とは何かを求め執着することだ。執着への欲求はきりがない。その欲求は第一に名誉である。名誉には二種類ある。一つは社会的名誉で、もう一つは学問や芸術の誉れである。二つ目は性欲で、三つ目に食欲がある。他にも欲求はあるが、この三つに比べれば高が知れている。こうした欲求は自然の摂理と逆さまで、多くは大失態を招く。欲求など追求しないに限る。

第二百四十一段

■ 原文

望月の円かなる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜の中にさまで変る様の見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。されども、未だ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門に臨む時、所願一事も成せず。言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。

所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄信迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向ふ時、障りなく、所作なくて、心身永く閑かなり。


■ 現代語訳

月が円を描くのは一瞬である。この欠けること光の如し。気に止めない人は、一晩でこれ程までに変化する月の姿に気がつかないだろう。病気もまた満月と同じである。今の病状が続くのではない、死の瞬間が近づいてくるのだ。しかし、まだ病気の進行が遅く死にそうもない頃は、「こんな日がいつまでも続けばいい」と思いながら暮らしている。そして、元気なうちに多くのことを成し遂げて、落ち着いてから死に向かい合おうと考えていたりする。そうしているうちに、病気が悪化し臨終の間際で、何も成し遂げていないことに気がつく。死ぬのだから、何を言っても仕方ない。今までの堕落を後悔して、「もし一命を取り留めることができたら、昼夜を惜しまず、あれもこれも成し遂げよう」と反省するのだが、結局は危篤になり、取り乱しながら死ぬのである。世に生きる人は、大抵がこんなものだ。人はいつでも死を心に思わなければならない。

やるべきことを成し遂げてから、静かな気持ちで死に向かい合おうと思えば、いつまでも願望が尽きない。一度しかない使い捨ての人生で、いったい何を成し遂げるのか。願望はすべて妄想である。「何かを成し遂げたい」と思ったら、妄想に取り憑かれているだけだと思い直して、全てを中止しなさい。人生を捨てて死に向かい合えば、煩わしさや、ノルマもなくなり、心身に平穏が訪れる。

第二百四十段

■ 原文

しのぶの浦の蜑の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。

世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、賑はゝしきにつきて、「誘う水あらば」など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分け来し葉山の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。

すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくゝ、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。

梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如かじ。


■ 注釈

1 誘う水あらば

 ・「わびぬれば身を浮草の根に絶えて誘う水あらば住なんとぞ思ふ」『古今集小野小町

2 分け来し葉山の

 ・「筑波山端山繁山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり」『新古今集


■ 現代語訳

人目を避けて恋路を走り、仕掛けられたトラップを突破し、暗闇の中、逢瀬を求めて性懲りもなく恋人のもとへと馳せ参じてこそ、男の恋心は本物になり、忘れられない想い出にも昇華する。反対に、家族公認の見合い結婚をしたら、ただ間が悪いだけだ。

生活に行き詰まった貧乏人の娘が、親の年ほど離れた老人僧侶や、得体の知れない田舎者の財産に目がくらみ、「貰ってくださるのなら」と呟けば、必ず世話焼きが登場する。「大変お似合いで」などと言って、結婚させてしまうのは、悪い冗談としか思えない。こういうお二方は、ご結婚後、いったい何を話すのだろうか。長く辛い日々を過ごし、嶮しい困難を乗り越えてこそ、問わず語りも尽きないだろう。

通常、見合い結婚は不満ばかりがつのる。美女と結婚しても、男の方に品がなく、みすぼらしく、しかも中年だったら、「自分のような男のために、この女は一生を棒に振るのか」と、かえってくだらない女に見えてくる。そんな女と向き合えば、自分の醜さをしみじみと思い知らされて、死にたくなるのであった。

光源氏は、満開の梅の夜、小麦粉をまぶしたような月に誘われて、女の家の周りを彷徨った。恋人の家から帰る朝、垣根の露をはらって消えそうな月を見た。こんな話にドキドキしない男は、恋愛などしてはいけないのだ。

第二百三十九段

■ 原文

八月十五日・九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なる故に、月を翫ぶに良夜とす。


■ 注釈

1 婁宿

 ・古代中国の天文学で、黄道に近い二十八星座を基準に月や太陽の位置を示した。これを二十八宿と呼び、「婁宿」は、その一つ。

参照:婁宿 - Wikipedia

参照:二十八宿 - Wikipedia


■ 現代語訳

十五夜と十三夜は牡羊座が輝いている。その頃は空気が澄んでいるから月を観賞するのにもってこいだ。

2009-07-18

第二百三十八段

■ 原文

御随身近友が自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例を思ひて、自賛の事七つあり。

一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。暫し見給へ」とて立ち止りたるに、また、馬を馳す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その詞の誤らざる事を人皆感ず。

一、当代未だ坊におはしましし比、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹子へ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今、御所にて、『紫の、朱奪ふことを悪む』と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。『なほよく引き見よ』と仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あな嬉し」とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児どもも常の事なれど、昔の人はいさゝかの事をもいみじく自賛したるなり。後鳥羽院の、御歌に、「袖と袂と、一首の中に悪しかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、「『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』と侍れば、何事か候ふべき」と申されたる事も、「時に当りて本歌を覚悟す。道の冥加なり、高運なり」など、ことことしく記し置かれ侍るなり。九条相国伊通公の款状にも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自賛せられたり。

一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型に模さんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と云ふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。己れが高名なり」とて、筆者の許へ言ひ遣りたるに、「誤り侍りけり。数行と直さるべし」と返事侍りき。数行も如何なるべきにか。若し数歩の心か。おぼつかなし。

一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行道の中、竜華院と書ける、古き額あり。「佐理・行成の間疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、「行成ならば、裏書あるべし。佐理ならば、裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。

一、那蘭陀寺にて、道眼聖談義せしに、八災と云ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化皆覚えざりしに、局の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り出で侍りしに、陳の外まで僧都見えず。法師どもを返して求めさするに、「同じ様なる大衆多くて、え求め逢はず」と言ひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。

一、二月十五日、月明き夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後より入りて、独り顔深く隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人より殊なるが、分け入りて、膝に居かゝれば、匂ひなども移るばかりなれば、便あしと思ひて、摩り退きたるに、なほ居寄りて、同じ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そゞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍れね」と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて出し給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。


■ 注釈

1 御随身近友

 ・中原近友。堀川・鳥羽天皇の時代の人。名ジョッキーで、神楽の舞手であった。

2 最勝光院

 ・後白河法皇の中宮、建春門院の希望で建てられた御所。焼失し廃墟となった。位置は現在の三十三間堂のあたりだと言われる。

参照:平滋子 - Wikipedia

3 万里小路殿御所

 ・冷泉万里小路内裏。もとは四条大納言隆親の家であった。当時の東宮御所

4 堀川大納言殿

 ・源具親。権大納言から大納言。後に内大臣。

参照:源具親 - Wikipedia

5 後鳥羽院

 ・後鳥羽天皇

参照:後鳥羽天皇 - Wikipedia

6 定家卿

 ・藤原定家。歌人。古典学者。『新古今和歌集』『新勅撰集』の選者。日記に『明月記』がある。

参照:藤原定家 - Wikipedia

7 九条相国伊通公

 ・藤原伊通。太政大臣

参照:藤原伊通 - Wikipedia

8 常在光院

 ・菅原在兼。文章博士、左大辨、勘解由使長官、民部卿から参議へ。

9 行房朝臣

 ・藤原行房。世尊寺流の能書の家系、勘解由小路家に生まれる。

参照:「藤原行房」を作成中 - Wikipedia


10 佐理

 ・藤原佐理(すけまさ)。平安時代の能書家。三蹟の一人。

参照:藤原佐理 - Wikipedia

11 行成

 ・藤原行成。平安時代中期の廷臣。多芸多才で名を馳せる。三蹟の一人。

参照:藤原行成 - Wikipedia

12 那蘭陀寺

 ・第百七十九段を参照。

参照:第百七十九段 - 徒然草 (新訂ブログ版)

13 道眼聖談義

 ・第百七十九段を参照。

参照:第百七十九段 - 徒然草 (新訂ブログ版)

14 賢助僧正

 ・醍醐寺の座主。護持僧で当時の一長者。

参照:「賢助」を作成中 - Wikipedia


■ 現代語訳

随身の中原近友が自慢話だと断って書いた、七つの箇条書きがある。全て馬術の事で、くだらない話だ。そう言えば、私にも自慢話が七つある。

一つ。大勢で花見に行ったときの事である。最勝光院の近くで馬に乗る男がいた。それを見て、「もう一度馬を走らせたら、馬が転んで落馬するでしょう。見てご覧なさい」と言って立ち止まった。再び馬が走ると、やはり引き倒してしまい、騎手は泥濘に墜落した。私の予言が的中したので、連中は、たまげていた。

一つ。後醍醐天皇が皇太子だった頃の話である。万里小路の東宮御所に堀川大納言がご機嫌伺いにやって来て、待合室で待っていた。用事があって待合室に入ると、大納言は『論語』の四、五、六巻を広げて、「皇太子様が『世間では紫色ばかり重宝され、朱色を軽く見ているのが憎い』という話を読みたいと言うのだが、本を探しても見つからない。『もっとよく探してみろ』と言われて困っているところだ」と言った。私が「九巻の、そこにありますよ」と教えてあげたら、「とても助かった。ありがとう」と言って、その本を持って皇太子様のもとへと飛んで行った。子供でも知っているような事だけど、昔の人は、こんな些細な事も大げさに自慢したものだ。後鳥羽院が、「短歌に袖という単語と、袂という単語を一首の中に折り込むのは悪いことでしょうか」と、藤原定家に質問したことがあった。定家は、「古今集に『秋の草 薄が袂に見えてくる稲穂は手招きする袖のよう』という和歌が古今集にございますので、何ら問題はないでしょう」と、答えたそうだ。わざわざ「大切な場面で記憶していた短歌が役に立った。歌の専門家として名誉なことであり、神がかった幸運である」と、物々しく書き残している。藤原伊通も、嘆願書に、どうでも良い経歴を書きつけて自画自賛していた。

一つ。東山、常在光院にある鐘突の鐘は菅原在兼が草案を作った。藤原行房が清書した文字を、鋳型にかたどる時に、現場監督が草案を取りだして、私に見せた。「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と書いてある。「韻を踏んでいますので、この百里というのは誤りでしょう」と言ってみた。監督は、「吉田先生にお見せして良かった。私の大手柄です」と、筆者である在兼の所へ伝えた。すると、「私の間違いだ。百里を数行に修正したい」と返事が返ってきた。しかし、数行というのもどうだろうか。数歩という意味だろうか。覚束ない。

一つ。大勢で比叡山の東塔、西塔、横川の三塔をお参りしたときの事である。横川のお堂の中に『竜華院』と書かれた古い額があった。「書道の名人、藤原佐理が書いたものか、藤原行成が書いたものか、どちらかが書いたものだと言われているのですが、はっきりしません」と、下っ端坊主がもったいぶって言うので、反射的に「行成が書いたものであれば、裏に説明書きがあるだろう。佐理が書いたものなら、裏は空白だ」と言ってやった。裏面はホコリまみれで蜘蛛の巣が張っていた。綺麗に掃除して、みんなで確認すると、「行成がいついつに書きました」と書いてあったので、その場にいた人は感心していた。

一つ。日本のナーランダで、道眼上人がありがたい話をしたときの事である。人の心を煩わせる八つの災いという話をしたのだが、その八つの災いを忘れたようで、「誰かこれを覚えている奴はいないか?」と言った。しかし、ここの弟子の中に覚えている奴はいなかった。草葉の陰から「かくかくしかじかのことですよ」と言ってやったら、上人に褒められた。

一つ。賢助僧正のお供として香水を聖なる玉に注ぐ儀式を見学していたときの事である。まだ儀式が終わっていないのに僧正は帰ってしまった。塀の外にも見あたらず、弟子の坊主たちを引き返らせて探させたけれども、「みんな同じような坊主の格好をしているので、探しても見つけられませんでした」と、かなり時間がかかった。「ああ、困ったことだ。あなたが探してきなさいと」言われて、私が引き返して、僧正をつれてきたのだった。

一つ。二月十五日の釈迦が入滅した日の事である。月の明るい夜更けに、千本釈迦堂にお参りに行き、裏口から入って、顔を隠してお経を聴いていた。いい匂いのする美少女が人を押しよけて入ってきて、私の膝に寄りかかって座るので、移り香があったらマズイと思って、よけてみた。それでも少女は私の方に寄り添ってくるので、仕方なく脱出した。そんなことがあった後に、昔からあるところで家政婦をしている女が、世間話のついでに、「あなたは色気の無いつまらない男ね。少しがっかりしました。あなたの冷たさに恨みを持っている女性がいるのですよ」などと言い出すので、「何のことだかさっぱりわかりません」とだけ答えておいて、そのままにしておいた。後で聞いたところ、あのお参りの夜、私の姿を草葉の陰から見て気になった人がいたらしく、お付きの女を変装させ、接近させたらしい。「タイミングを見計らって、言葉などをかけなさい。その様子を後で教えて。面白くなるわ」と言いつけて、私を試したのらしいのだ。

第二百三十七段

■ 原文

柳筥に据うる物は、縦様・横様、物によるべきにや。「巻物などは、縦様に置きて、木の間より紙ひねりを通して、結い附く。硯も、縦様に置きたる、筆転ばず、よし」と、三条右大臣殿仰せられき。

勘解由小路の家の能書の人々は、仮にも縦様に置かるゝ事なし。必ず、横様に据ゑられ侍りき。


■ 注釈

1 柳筥(やないばこ)

 ・柳の組木細工で作った箱。二つの足を台に付け、蓋には、烏帽子、冠、お経、書物、硯、筆を載せた。三角に切った柳の木材を紐で結んで作ったのでギザギザの溝がある。

参照:柳筥 (やないばこ) - 関心空間

2 三条右大臣殿仰

 ・右大臣は内大臣の誤りで、三条実重か。太政大臣。その息子、公茂との説もある。

参照:三条実重 - Wikipedia

参照:三条公茂 - Wikipedia

3 勘解由小路の家

 ・書能家、藤原行成の家系。

参照:藤原行成 - Wikipedia


■ 現代語訳

道具箱の蓋の上に物を置く際には、縦に向けたり横に向けたり、物によってそれぞれだ。巻物は、溝に向かって縦に置き、組木の間から紐を通して結ぶ。硯も縦に置くと筆が転がらなくて良い」と三条実重が言っていた。

勘解由小路家の歴代の能書家達は、間違っても硯を縦置きにしなかった。決まって横置きにしていた。

第二百三十六段

■ 原文

丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。

御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。


■ 注釈

1 丹波に出雲

 ・現在の京都府亀岡市千歳町出雲。出雲神社がある。

参照:出雲大神宮 - Wikipedia


2 聖海上人

 ・伝未詳。


■ 現代語訳

京都の亀岡にも出雲がある。出雲大社の分霊を祀った立派な神社だ。志田の某という人の領土で、秋になると、「出雲にお参り下さい。そばがきをご馳走します」と言って、聖海上人の他、大勢を連れ出して、めいめい拝み、その信仰心は相当なものだった。

神前にある魔除けの獅子と狛犬が後ろを向いて背中合わせに立っていたので、聖海上人は非常に感動した。「何と素晴らしいお姿か。この獅子の立ち方は特別です。何か深い由縁があるのでしょう」と、ボロボロ泣き出した。「皆さん、この恍惚たるお姿を見て鳥肌が立ちませんか。何も感じないのは非道いです」と言うので、一同も変だと思い、「本当に不思議な獅子狛犬だ」とか、「都に帰って土産話にしよう」などと言い出した。上人は、この獅子狛犬についてもっと詳しく知りたくなった。そこで、年配のいかにも詳しく知っていそうな神主を呼んで、「この神社の獅子の立ち方は、私などには計り知れない由縁があるとお見受けしました。是非教えて下さい」と質問した。神主は、「あの獅子狛犬ですか。近所の悪ガキが悪戯したのですよ。困ったガキどもだ」と言いながら、もとの向きに戻して去ってしまった。果たして、聖海上人の涙は蒸発したのだった。

第二百三十五段

■ 原文

主ある家には、すゞろなる人、心のまゝに入り来る事なし。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるゝものなり。

また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。

虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきまゝに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干の事は入り来らざらまし。


■ 現代語訳

主人がある家には、他人が勝手に入って来ない。主人のない家には通りすがりの人がドカドカ押し入る。また、人の気配が無いので、狐や梟のような野生動物も我が物顔で棲み着く。「こだま」などという「もののけ」が出現するのも当然だろう。

同じく、鏡には色や形がないから、全ての物体を映像にする。もし鏡に色や形があれば、何も反射しないだろう。

大気は空っぽで、何でも吸い取る。我々の心も、幾つもの妄想が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。もしかしたら、心の中身は空っぽなのかも知れない。家に主人がいるように、心にも主人がいたら、妄想が入り込む余地もないだろう。

第二百三十四段

■ 原文

人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。

人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何なる事のあるにか」と、押し返し問ひに遣るこそ、心づきなけれ。世に古りぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。

かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。


■ 現代語訳

何かを尋ねる人に、「まさか知らないわけがない、真に受けて本当のことを言うのも馬鹿馬鹿しい」と思うからだろうか、相手を惑わす答え方をするのは悪いことだ。相手は、知っていることでも、もっと知りたいと思って尋ねているのかも知れない。また、本当に知らない人がいないとは断言できない。だから、屁理屈をこねずに正確に答えれば、信頼を得られるであろう。

まだ誰も知らない事件を自分だけ聞きつけて、「あの人は、あきれた人だ」などと省略して言うのも良くない。相手は何の事だかさっぱり分からないから、「何の事ですか?」と、聞き返す羽目になる。有名な話だとしても、偶然に聞き漏らすこともあるのだから、正確に物事を伝えて何が悪いのか。

このような言葉足らずは、頭も足りない人がすることだ。

第二百三十三段

■ 原文

万の咎あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちよき人の、言うるはしきは、忘れ難く、思ひつかるゝものなり。

万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。


■ 現代語訳

何事でも失敗を避けるためには、いつでも誠実の二文字を忘れずに、人を差別せず、礼儀正しく、口数は控え目でいるに超したことはない。男でも女でも、老人でも青二才でも同じ事である。ことさら美男子で言葉遣いが綺麗なら、忘れがたい魅力になろう。

様々な過失は、熟練した気で得意になったり、出世した気で調子に乗って人をおちょくるから犯すのだ。

第二百三十二段

■ 原文

すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱の一つ落ちたりしかば、「作りて附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓の柄ありや」など言ふを見れば、爪を生ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。「柄杓の柄は、檜物木とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或人仰せられし。

若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。


■ 注釈

1 琵琶法師

 ・『平家物語』を琵琶の伴奏で聞かせる盲目の僧侶。

参照:琵琶法師 - Wikipedia


■ 現代語訳

人間は何事も知らず、出来ず、馬鹿のふりをしたほうが良い。ある賢そうな子供がいた。父親がいる前で人と話すので中国の史書から話題を引いていた。利口には見えたが、目上の人の前だといっても、そこまで背伸びすることもなかろうと思われた。また、ある人の家で琵琶法師の物語を聞こうと琵琶を取り寄せたら柱が一つ取れていた。「柱を作って付けなさい」と言うと、会場にいた人格者にも見えなくはない男が、「使わない柄杓の柄はないか」と立ち上がった。爪を伸ばしているから、この男も琵琶を弾くのだろう。だが、盲目の法師が弾く琵琶に、そこまで気を遣うこともない。琵琶を心得たつもりでいるのだろうと思えば、片腹痛くなった。「柄杓の柄は、わっぱ細工だから琵琶の柱になどにできる物ではない」という説もある。

若者は、わずかなことで、よく見え、悪くも見える。

第二百三十一段

■ 原文

園の別当入道は、さうなき庖丁者なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかゞとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。枉げて申し請けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。

大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。


■ 注釈

1 園の別当入道

 ・藤原基氏。検非違使別当(第九十九段参照)となり、二十四歳で引退、出家する。

参照:園基氏 - Wikipedia

参照:四条流庖丁道 - Wikipedia

3 北山太政入道殿

 ・百十八段に登場。後京極院の父、西園寺実兼(さいおんじさだかね)。

参照:西園寺実兼 - Wikipedia


■ 現代語訳

園の別当入道は、二人といない料理人である。ある人の家で見事な鯉が出てきたので、誰もが皆、別当入道の包丁捌きを見たいと思ったが、軽々しくお願いするのもどうかと逡巡していた。別当入道は察しの良い人物なので、「この頃、百日連続で鯉を捌いて料理の腕を磨いております。今日だけ休むわけにもいきません。是非、その鯉を調理しましょう」と言って捌いたそうだ。場の雰囲気に馴染み、当意即妙だと、ある人が北山太政入道に言った。入道は、「こんな事は、厭味にしか聞こえない。『捌く人がいないなら下さい。捌きます』とだけ言えばいいのだ。どうして百日の鯉などと、わけの分からないことを言うのだろうか」と、おっしゃったので、納得したという話に、私も納得した。

わざとらしい小細工で人を喜ばせるよりも、何もしない方がよいのだ。口実を作って接待をするのも良いが、突然にご馳走する方が、ずっと良い。プレゼントも、記念日などではなく、ただ「これをあげよう」と言って差し出すのが、本物の好意なのだ。もったいぶって、相手を焦らしたり、ギャンブルの景品にするのは興ざめである。

第二百三十段

■ 原文

五条内裏には、妖物ありけり。藤大納言殿語られ侍りしは、殿上人ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾を掲げて見るものあり。「誰そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗きたるを、「あれ狐よ」とどよまれて、惑ひ逃げにけり。

未練の狐、化け損じけるにこそ。


■ 注釈

1 五条内裏

 ・五条大宮内裏。一二七〇年に焼失。

2 藤大納言殿

 ・二条為世。権大納言。宮廷歌人。兼好法師の和歌の師である。歌論書に『和歌庭訓』がある。

参照:二条為世 - Wikipedia

3 黒戸

 ・清涼殿の北廂から弘徽殿までの西向きの戸。ここを黒戸の御所と呼ぶ。

参照:清涼殿 - Wikipedia


■ 現代語訳

五条の皇居には妖怪が巣くっていた。二条為世が話すには、皇居に上がることを許された男たちが黒戸の間で碁に耽っていると、簾を上げて覗き込む者がある。「誰だ」と眼光鋭く振り向けば、狐が人間を真似て、立て膝で覗いていた。「あれは狐だ」と騒がれて、あわてて逃げ去ったそうだ。

未熟な狐が化け損なったのだろう。

第二百二十九段

■ 原文

よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たず。


■ 注釈

1 妙観(めうくわん)

 ・大阪府箕面市にある勝尾寺の観音像と四天王像を彫刻した僧。

参照:勝尾寺 - Wikipedia


■ 現代語訳

名匠は少々切れ味の悪い小刀を使うという。妙観が観音を彫った小刀は切れ味が鈍い。

第二百二十八段

■ 原文

千本の釈迦念仏は、文永の比、如輪上人、これを始められけり。


■ 注釈

1 千本

 ・京都市上京区千本にある瑞応山大報恩寺。通称千本釈迦堂。

参照:大報恩寺 - Wikipedia

2 釈迦念仏

 ・「南無釈迦牟尼仏」と、釈尊の名号を唱えて菩提を祈願する念仏。二月九日から十五日まで行われた。遺教経会ともいう。

3 文永

 ・亀山天皇の時代。一二六四年から一二七五年まで。

参照:文永 - Wikipedia

4 如輪上人

 ・澄空。藤原師家の子。大報恩寺二世。

参照:松殿師家 - Wikipedia


■ 現代語訳

千本釈迦堂で「南無釈迦牟尼仏」と念仏を唱える仏事は、亀山天皇の時代に如輪上人が始めたのだ。

第二百二十七段

■ 原文

六時礼讃は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房といふ僧、節博士を定めて、声明になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讃も、同じく、善観房始めたるなり。


■ 注釈

1 六時礼讃

 ・浄土宗の法要のひとつ。一日を六つに分けて浄土往生の念仏を唱える。

参照:六時礼讃 - Wikipedia

2 法然上人

 ・第三十九段に登場。本名は源空、法然房と名乗った。岡山生まれのお坊さん。浄土宗を開いた。

参照:法然 - Wikipedia

3 安楽

 ・法然の弟子。法名は遵西。後鳥羽上皇の留守中に御所の女房を出家させ、上皇の逆鱗に触れ、六条河原で処刑され羅切、及び斬首される。

参照:遵西 - Wikipedia

4 太秦善観房

 ・京都市右京区太秦にある広隆寺の僧か。

参照:広隆寺 - Wikipedia

5 節博士

 ・詞章の隣に調子の高低、長短を記した符号。ネウマ符。

参照:ネウマ譜 - Wikipedia

6 後嵯峨院の御代

 ・後嵯峨天皇の在位期間。一二四二年から一二四六年まで。

参照:後嵯峨天皇 - Wikipedia

7 法事讃

 ・『転経行道願往生浄土法事讃』の略で、浄土転経行道の善行が記された書。

参照:浄土教 - Wikipedia


■ 現代語訳

六時の礼賛は、法然の弟子の安楽という僧が経文を集めて作り、日々の修行にしていたのが起源である。のちに、太秦の善観房という僧がアクシデンタルを追加して楽譜にした。これが一発で昇天できるという「一念の念仏」の始まりである。後嵯峨天皇の時代のことだ。「法事讃」を楽譜にしたのも善観房である。

第二百二十六段

■ 原文

後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。


■ 注釈

1 後鳥羽院の御時

 ・全段の後鳥羽院が統治した時代。一一八三年から一一九八年まで。

参照:後鳥羽天皇 - Wikipedia

2 信濃前司行長

 ・信濃の国の前任の地方官。中山行呂了庵砲如下野守。「信濃前司」は、兼好法師の誤り。

参照:下野国 - Wikipedia

3 慈鎮和尚

 ・六十七段に登場する「吉水和尚」。前後四度、天台座主で歌人。

参照:慈円 - Wikipedia

4 平家物語

 ・平家滅亡を記した軍記物語。

参照:平家物語 - Wikipedia

5 生仏

 ・性仏、姉小路資時という説がある。郢曲において天下の名人と呼ばれる。

参照:「郢曲」を編集中 - Wikipedia

6 山門

 ・比叡山延暦寺のこと。三井寺は「寺門」と呼ばれる。

参照:延暦寺 - Wikipedia

7 九郎判官

 ・源義経源義朝の九男。

参照:源義経 - Wikipedia

8 蒲冠者

 ・源範頼源義朝の六男。弟の義経と協力し、木曾義仲、平家を討ち滅した。

参照:源範頼 - Wikipedia

9 琵琶法師

 ・『平家物語』を琵琶の伴奏で聞かせる盲目の僧侶。

参照:琵琶法師 - Wikipedia


■ 現代語訳

後鳥羽院の時代のことである。地方官の行長は古典の研究に優れ、評判が高かった。しかし、漢詩の勉強会で、白楽天の新楽府を論じた際に「七徳の舞」のうち、二つを忘れてしまい、天皇の前で恥をかいだけでなく「五徳のお兄さん」という不名誉なあだ名まで額に烙印されてしまった。羞恥心に悶絶した行長は、勉強を辞めて、人生も捨ててみることにした。慈円僧正という人は、一つの芸に秀でた者ならば奴隷でも可愛がったので、この行長の面倒をみた。

平家物語』の作者は、この行長なのだ。性仏という盲目の坊主に教えて、語り部にさせた。比叡山での事を特に緻密に書き、義経にも詳しい。範頼の事は詳しく知らなかったのか、適当に書いている。武士や武芸については関東者の性仏が仲間に聞いて行長に教えた。今の琵琶法師は、この郢曲で名高い性仏の地声を真似しているのだ。

第二百二十五段

■ 原文

多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に興ある事どもを選びて、磯の禅師といひける女に教へて舞はせけり。白き水干に、鞘巻を差させ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊に教へさせ給ひけるとぞ。


■ 注釈

1 多久資(おほのひさすけ)

 ・周防守。多家(おおのけ)は、神楽と舞を家業にして宮廷に仕えた。

参照:三方楽所 - Wikipedia

2 通憲入道

 ・藤原通憲(みちのり)。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の四代天皇に仕え、少納言になる。出家して、信西と称した。博学多才として知られる。

参照:信西 - Wikipedia

3 磯の禅師

 ・後に登場する「静」の母。静に伴い京都から鎌倉に下向。「禅師」は芸妓の源氏名。

参照:磯禅師 - Wikipedia

4 静

 ・源義経の妾で、静御前と呼ばれる。

5 白拍子

 ・遊女が男装して舞う歌舞。

参照:白拍子 - Wikipedia

6 源光行

 ・鎌倉初期の歌人で学者でもあった。源頼朝のセキュリティ・ポリス。関東地方で活躍し『蒙求和歌』『百詠和歌』などの著書を残す。『源氏物語』の河内本を校閲した。

参照:源光行 - Wikipedia

7 後鳥羽院

 ・第八十二代の天皇。承久の乱に失敗し、隠岐の島に流される。

参照:後鳥羽天皇 - Wikipedia

参照:承久の乱 - Wikipedia

8 亀菊

 ・後鳥羽院が寵愛した舞姫。この寵愛が承久の乱の原因の一つとなったと伝えられる。隠岐の島に連れ添う。

参照:「亀菊」を編集中 - Wikipedia


■ 現代語訳

舞踏家の多久資が言っていた。「藤原信西入道が、数ある舞の中から好きな物を選んで、磯の禅師という芸妓に教えて舞わせた。白装束に匕首、黒烏帽子という出で立ちだったので、男舞と呼んだ。その芸妓の娘が静御前である。母の舞を伝承したのだ。これが白拍子の起こりである。太古の神話を歌っていたが、のちに、源光行が多くの台本を手がけた。後鳥羽院の手なる作品もあり、愛人の亀菊という芸妓に舞わせた」と。

第二百二十四段

■ 原文

陰陽師有宗入道、鎌倉より上りて、尋ねまうで来りしが、先づさし入りて、「この庭のいたすらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植うる事を努む。細道一つ残して、皆、畠に作り給へ」と諌め侍りき。

まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益なき事なり。食ふ物・薬種など植ゑ置くべし。


■ 注釈

1 陰陽師

 ・陰陽寮に属した占筮及び地相などを司った。占い師。

参照:陰陽師 - Wikipedia

2 有宗入道

 ・阿倍有宗。陰陽頭。平安中期の有名な占い師で、安倍晴明、十代目の子孫に当たる。

参照:安倍晴明 - Wikipedia


■ 現代語訳

占い師の安倍有宗が、鎌倉から上京し訪ねて来た。門に足を踏み入れると、まず一言、「この庭は無駄に広い。何の工夫もなく、けしからぬ。少し頭を使えば、何かを栽培できるだろうに。小径を一本残して、あとは畑に作りかえろ」と説教した。

もっともな話である。少しの土地でも荒れ地にしておくのはもったいない。食べ物や薬でも植えた方がましである。

2009-07-17

第二百二十三段

■ 原文

鶴の大臣殿は、童名、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事なり。


■ 注釈

1 鶴の大臣殿

 ・九条基家。内大臣。鶴殿(たずどの)と号した。歌人で『続古今集』の選者。

参照:九条基家 - Wikipedia


■ 現代語訳

九条基家が、鶴の大臣と呼ばれるのは、幼少の頃に「鶴ちゃん」と呼ばれていたからだ。鶴を飼っていたからという話は、でまかせだ。

第二百二十二段

■ 原文

竹谷乗願房、東二乗院へ参られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言・宝篋印陀羅尼」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名を追福に修して巨益あるべしと説ける経文を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかゞ申さんと思ひて、本経の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。


■ 注釈

1 竹谷乗願房

 ・「竹谷」は京都市山科。「乗願房」は、権中納言長方の子で、竹谷上人と呼ばれた。法然上人の弟子である。

参照:山科区 - Wikipedia

参照:藤原長方 - Wikipedia

2 東二乗院

 ・後深草天皇の皇后、公子。西園寺実氏の娘。

参照:西園寺公子 - Wikipedia

3 光明真言・宝篋印陀羅尼

 ・大日如来の呪文。仏、菩薩の全てを通じる呪文か。


■ 現代語訳

山科の乗願房が、東二乗院の元へ参上したときのことである。東二乗院が、「死んだ人に何かをしてあげたいのですが、どうすれば喜ばれるでしょうか」と質問された。乗願房は、「こうみょうしんごん、ほうきょういんだらに、と唱えなさい」と答えた。弟子達が、「どうしてあんなことを言ったのですか。なぜ念仏が一番尊いと言わないのですか」と責め立てる。乗願房は、「自分の宗派の事だから、軽々しいことを言えなかったのだ。正しく、なむあみだぶつ、と唱えれば、死者に通じて利益があると書いた文献を読んだことがない。万が一、根拠を問われたら困ると思って、一応、経にも書いてある、この呪文を申したのだ」と答えた。

第二百二十一段

■ 原文

「建治・弘安の比は、祭の日の放免の附物に、異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心をして、蜘蛛の網書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの、今日も語り侍るなり。

この比は、附物、年を送りて、過差殊の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。


■ 注釈

1 建治・弘安の比

 ・建治は千二百七十五年から七十八年、弘安は千二百七十八年から八十八年。後宇多天皇の時代。

参照:建治 - Wikipedia

参照:弘安 - Wikipedia

参照:後宇多天皇 - Wikipedia


■ 現代語訳

後宇多天皇の時代には、葵祭りの警備をする放免人が持つ槍に、変梃な飾りを付けていた。紺色の布を、着物にして四・五着ぶん使って馬を作り、尾や鬣はランプの芯を使い、蜘蛛の巣を書いた衣装などを付け、短歌の解釈などを言いながら練り歩いた姿をよく見た。面白いことを考えたものだ」と、隠居した役人達が、今でも昔話する。

近頃では、年々贅沢になり、この飾りも行き過ぎたようだ。色々と重たい物を、いっぱい槍にぶらさげて、両脇を支えられながら、本人は槍さえ持てずに息を切らせて苦しがっている。とても見るに堪えない。

第二百二十段

■ 原文

「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調の最中なり。寒・暑に随ひて上り・下りあるべき故に、二月涅槃会より聖霊会までの中間を指南とす。秘蔵の事なり。この一調子をもちて、いづれの声をも調へ侍るなり」と申しき。

凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。


■ 注釈

1 天王寺の舞楽

 ・大阪市天王寺区にある四天王寺。「舞楽」は中国から伝来した古典音楽舞踏。

参照:四天王寺 - Wikipedia

参照:舞 - Wikipedia

2 伶人

 ・音楽を演奏する人。

3 太子

 ・聖徳太子

参照:聖徳太子 - Wikipedia

4 六時堂

 ・昼夜を、六時間にわけて、その時々に勤行をするお堂。

5 黄鐘調

 ・音の音程や調子で、ここでは鐘の音が同期していることを指す。


6 涅槃会

 ・二月十五日の、釈迦入滅の忌日に行う法事。

参照:涅槃会 - Wikipedia

7 聖霊会

 ・聖徳太子が没した、二月二十日の忌日に行う法事。

参照:聖霊会 - Wikipedia

8 祇園精舎

 ・中インドの舎衛城にあった寺院。釈迦が説法を行った場所。

参照:祇園精舎 - Wikipedia

9 無常院

 ・祇園精舎にあった、病人を安息させるために建てた僧院。

10 西園寺

 ・京の西北の今の金閣寺のある地に藤原公経(きんつね)が建設した仏堂。

参照:西園寺 - Wikipedia

11 浄金剛院

 ・亀山殿(第五十一段)に、今昔の檀林寺の跡に建てられた御堂。現在の臨川寺の付近と推定される。

参照:亀山天皇 - Wikipedia

参照:臨川寺 - Wikipedia


■ 現代語訳

「何事も、辺鄙な片田舎は下品で見苦しいが、天王寺の舞楽だけは、都に勝とも劣らない」と言う。天王寺の奏者が、「我が寺の楽器は、正確にチューニングされている。だから響きが美しく、他の舞楽よりも優れているのだ。聖徳太子の時代から伝わる調律の教えを今日まで守ってきたおかげである。六時堂の前に鐘がある。その音色と完全に一致した黄鐘調の音だ。暑さ寒さで鐘の音は変わるから、釈迦入滅の二月十五日から、聖徳太子没日の二月二十日の五日間を音の基準とする。門外不出の伝統である。この一音を基準に、全ての楽器の音色をチューニングするのだ」と、言っていた。

鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を、黄鐘調にするべく、何度も鋳造した。結局は失敗して、遠くから取り寄せた。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである。

2009-07-16

第二百十九段

■ 原文

四条黄門命ぜられて云はく、「竜秋は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日来りて云はく、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。その故は、干の穴は平調、五の穴は下無調なり。その間に、勝絶調を隔てたり。上の穴、双調。次に、鳧鐘調を置きて、夕の穴、黄鐘調なり。その次に鸞鏡調を置きて、中の穴、盤渉調、中と六とのあはひに、神仙調あり。かやうに、間々に皆一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間を配る事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人難し』と申しき。料簡の至り、まことに興あり。先達、後生を畏ると云ふこと、この事なり」と侍りき。

他日に、景茂が申し侍りしは、「笙は調べおほせて、持ちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎に、口伝の上に性骨を加へて、心を入るゝこと、五の穴のみに限らず。偏に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれをも吹き合はす。呂律の、物に適はざるは、人の咎なり。器の失にあらず」と申しき。


■ 注釈

1 四条黄門

 ・藤原隆資。権中納言。「黄門」は中納言の唐名。南朝群に属して男山で戦死。死後、左大臣

参照:四条隆資 - Wikipedia

2 竜秋

 ・豊原竜秋。笙の名門、豊原家の出身。天皇や、隆資の師。

参照:三方楽所 - Wikipedia

3 横笛

 ・横向きに吹く笛。

参照:龍笛 - Wikipedia

参照:能管 - Wikipedia

参照:篠笛 - Wikipedia

4 景茂

 ・大神景茂。笛の名手で、筑前守。

5 笙

 ・雅楽で使う管楽器。

参照:笙 - Wikipedia


■ 現代語訳

四条大納言が「豊原竜秋という奴は、管楽器の分野においては神様のような者だ。奴が先日、こんなことを言った。『浅はかで、口にするのも恥ずかしいのですが、横笛の五番の穴は、いささか信用ならないと秘かに思っているのです。何故かと申せば、六番目の穴は、ミカンのミに近い音で、その上の五番目の穴は、変ト調です。その二つの穴の中間に、ファイトのファがあります。その上にある穴はアオイソラのソで、次の穴の中間がシアワセのシ、二番目の中の穴と一番目の六の穴の間は神聖な音です。このように、どの穴も、穴と穴の間に半音階を潜ませているのに、五番目の穴だけは上の穴との間に半音がありません。それでいて、他の穴と同じ間隔で並んでいるのです。ですから、五番目の穴からは、不自然な音が出ます。この穴を吹く時は、必ず口をリードから離して吹かなければならないのです。それが上手くできないと、楽器が言うことを聞いてくれません。この五番目の穴を吹きこなせる人は滅多いないのです』などと。奥深い考え方で、勉強になった。先輩は後輩を畏れよとは、このことであるな」と、おっしゃった。

後日、大神景茂が「笙の笛は調律済みの物を手にするのだから、適当に吹いていれば音が出る。笛はブレスで音を調整する。どの穴にも吹き方があり、しかも、演奏者は自分の癖を考えて調整するのだ。用心して吹くのは、五番目の穴だけではない。竜秋のように、ただ単に口を離して吹けば済むなどという、簡単なことではないのだ。適当に吹けば、どの穴も変梃な音が出るに決まっている。音の調子が、他の楽器と合わないのは、楽器に欠陥があるのではなく、演奏者に問題があるのだ」と、言った。

第二百十八段

■ 原文

狐は人に食ひつくものなり。堀川殿にて、舎人が寝たる足を狐に食はる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀を抜きてこれを防ぐ間、狐二疋を突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所食はれながら、事故なかりけり。


■ 注釈

1 堀川殿

 ・大納言久我通具(ごがみちとも)の子孫が住む家で、場所は不明。堀川は。京の西、一条から九条へ流れる川。

参照:堀川 (京都府) - Wikipedia

2 舎人

 ・ここでは、貴族の家来で、牛飼いや、馬の口引きを指す。

参照:舎人 - Wikipedia

3 仁和寺

仁和寺

 ・京都府左京区御室にある真言宗御室派の大本山。

参照:仁和寺 - Wikipedia


■ 現代語訳

狐は化けるだけでなく人に噛み付くものだ。久我大納言の屋敷では、寝ている召使いが足を噛まれた。仁和寺の本道では、夜道を歩く小坊主が、飛びかかる三匹に噛み殺されそうになった。刀を抜いてこれを避け、二匹を刺した。一匹を突き刺して殺したが、二匹に逃げられた。法師は散々噛まれたが、命に別状は無かった。