病気か葛藤か

http://diary5.cgiboy.com/0/0047465/ の 2003.10.15 下のほう

個人的には
引きこもりの子にワンルームの部屋を与えて一切の仕送りを無しに一人暮らしをさせる。
家具は冷蔵庫からTVに至るまで一切を与えない。
外にでてバイトをするようになったら「葛藤」
飲まず食わずで1ヶ月部屋から出てこようとしなかったら「病気」って感じかな(ぉ

 どうもこの辺に一般の考え方があるような気がする。つらそうに見えても、イザとなったら働くんだろ、と。
 ところが、「イザとなっても出てこないかもしれない」のがひきこもりだと思う。

 「虚無感の深さ」とかいう問題か? 価値観の選択じゃなくて、やっぱり「出られない」んだと思う。


 ネットで検索してみたのだが、「ひきこもり」に関係あると思われる餓死事件というのは案外見当たらない。僕が覚えているのは3〜4件だ。(どなたか、「ひきこもり餓死」に関する情報お持ちじゃないですか?)


 いわゆる思春期型ひきこもりのケース以外に、



 「働かざる者食うべからず」。では、働くのをやめて食うのをやめよう・・・・それがあながちシャレじゃない。
 何をもって「働いた」となすのか。僕にとってこの日記は、あきらかに「仕事」に通じている。というか、この日記を書くこと自体が「仕事」だと感じている。報酬はもらっていないけれども。
 しかし、http://d.hatena.ne.jp/kojin/comment?date=20031013#c

働いたり人と話したりすることにはどんな種類の華々しいことも自己実現もあり得ない、というところから働き始める、と思えばわりと良いのではないか、という気がしています。

 働けないのは「プライド」だけの問題だろうか? 何がこんなに「苦しい」のだろう?

「しない/できない」 → 「したい/できる」

 ひきこもりは仕事を「しない」のか「できない」のかという区分を明確にすることは、社会的処遇を決定するために重要ではあるが(そして症候論や自由意志論にとって興味深い話題ではあるが)、それよりもっと重要で困難なのは、「したい」・「できる」を発動することである。
 欲望は「教える」ことはできない。ただ刺激することができるだけだ。

「欲望を持つことこそが苦痛への最大の処方箋だと思うのです。」

 友人から、お前の使う「欲望」はフロイトラカンの意味ではない、と指摘された。
 ★人間の欲望が言語に規定されているのだとしたら、欲望の刺激としては言語に関わることが最も効率的ではないのか。
 フロイトが口にし、ラカンが繰り返し取り上げた「無意識が再び閉じてしまわないうちに」という言葉は、私に「無意識の欲望」という言葉を思い出させる。現代の多くの欲望が無意識を通過するものではなく、それゆえお手軽に「満足させられる」ものでしかないとすれば、私の欲求不満はまさに「満足させられる」ことにあるのかもしれない。「満足させられない」ことが本性である無意識の欲望が、あまりにも放置され、縫い合わされたままになっている。わたしはことばの作業で、ことばを元気にする努力をしているはずだ。ことばを元気にする作品を目指しているはずだ。


 今は原和之の『ラカン 哲学空間のエクソダス』(ISBN:4062582511)を読んでいるのですが、ゆっくり、ゆっくりしか読めません。ラカン系のものは以前よく読んでいましたが、こうして日記にしようとして着実に読もうとすると、あるいは読み直そうとすると、実はぜんぜん読めていなかったなと思うことしきりです。友人の影響でドゥルーズにも食指が動いている。デリダは、東浩紀さんの『存在論的・・・』はおもしろく読みましたが、デリダ本人の訳書はほとんど読めません。浅田彰さんや斎藤環さんによるとデリダドゥルーズというのは「アンチ・ラカン」として出てきている面が大きいようなので、ひとまずはラカンをちゃんと考えられないかと思っているのですが。


 実は先日から、フィクションへの関係と現実への関係、ということをずっと考えているのですが、うまく考えがまとまりません。多くの思想家たちは文学というフィクションへの強い情熱を持ってきましたが、それが私にはよく分かりません。私は「作家の言葉」――自国語のなかで外国語を話すような言葉――を強く求めていますが、それは「フィクション」を求める情熱ではないのです。
 欲望を持つことこそが苦痛への最大の処方箋だと思うのです。しかし、欲望を持つことは果たして意味への意志をもつことなのかどうか。
 ともあれ、僕の情熱は、苦痛を除去することに向かっているようです。そしてその情熱は、どうやら意味(による満足)をとても嫌っているようなのです。

情報への感受性

 id:HiromitsuTakagiさん(高木浩光さん)の日記を読んでいて、議論の内容自体はほとんど僕には理解できないのだが、「情報」やその環境を規定する技術へのセンスがとても鋭敏な人なのだな、ということが伝わってくる。考えるに、ひきこもりの苦痛には、この文字や情報への感受性のトラブルがあるように思われてならない。
 id:hazumaさん(東浩紀さん)に、たしか「Crypto-Survival」というタイトルの連載があった。立ち読みしただけだし内容は何も覚えていないが、タイトルに強い印象を受けたのを覚えている。文字や情報について独特のセンスをもった人だな、と。
 ひきこもりの苦痛にとって、この「文字や情報への感受性」から学べる点が多いと思うのだが。それは「臨床心理」ではないかもしれないが、とても「臨床的」なもんだいだと思う。