前口上

 2004年1月31日、韓国で開かれた「ひきこもり」会議に出席してきました。
 「ひきこもり会議」といっても当事者が集まって会議したわけじゃなく、「専門家」の会議。僕は「当事者」という立場を期待されたんでしょう。
→ これが「オタク会議」とか「宗教会議」だと≪当事者≫の集まりになるのかな。
→ 「オタク学会」「宗教学会」だったら≪専門家・研究者≫の集まりか。
→ 「ヒキコモリ学会」ができたとき、≪当事者≫の発言はどのような位置づけになるだろう。当事者の発言なら何でも尊重されるべき、というものでもないだろうし・・・・(こういうのって社会学の問題設定なのかな)。


 話がそれた。


 今回の会議のレポートとしては、斎藤環さんの『韓国の「隠遁型ひとりぼっち」と日本の「ひきこもり」』(『中央公論』2004年4月号)が発表されています。僕がスルーした発言も取り上げられていますし、公的な報告としてはそちらをご覧ください。( → id:hikilink さんのメモがあります。)


 ここでは、1参加者としての感想を、気ままに書き散らしてみます。
【★付記:以下、韓国側の参加者に対して、あるいは会議そのものに対して、批判的なことばかり書いているように見えるかもしれませんが、これは僕なりの視点から現状を把握するためになるだけ事実に即して書こうとしているだけであって、一方的に韓国側を悪く言おうとか、会議そのものをけなそうとか、そのような意図は毛頭ありませんので念のため。むしろ個人的には、「ヒキコモリ」というテーマの会議に誠実に臨まれていた参加者の方々に、感謝の念さえ抱いております。】


 実は韓国旅行は2泊3日にわたっていて、原稿用紙換算で150枚におよぶ韓国旅行記(空港・ホテルの様子、会議、飲み会、西大門刑務所博物館、市場での買い物、犬料理、など、細かい会話も再現しつつ)を書き上げたのですが、今回は会議の部分のみ公表します。
 気が向けば、他の箇所についても(会話以外)アップしてみようと思います。


 さーて、はじまりはじまりー。










 韓国には前日深夜に到着し、日本側の関係者は全員同じホテルに泊まっていた。僕は夜中2時過ぎに布団に入ったのだがまったく眠れず、朝の9時半に時計を確認したあと、少しだけウトウトした。



会議直前

 さいわい体調はそれほど悪くない。


 ホテル内の小さな食堂でお昼ご飯のあと、いったん部屋に戻り、「1時半にこの食堂に集合」というので行ってみたら、そこに縦長に机が並んでいるので驚く。・・・・こっ、ここでやるんですか? そうですか。
 次々とスーツ姿の会議参加者がやってくるのだが、この食堂はとても狭く、かつホテルの1階にあって、透明なガラスドアを手で押し開けるとすぐに外の道路。大丈夫かよ・・・・。


 細長く並べられたテーブルのこちら側が日本、向こう側に韓国の発言者が座る。「両国通じて、当事者として発言者席に座るのは上山さんだけだから、頑張ってね」なんて誰かに言われる。
 「ひきこもり」というテーマにとって、今回の日韓合同会議がきわめて重要なイベントであることは間違いないと思う。


 いつの間にかマスコミ関係者らしき人たちが増えてくる。ざわざわ。





会議が始まった。

 最初に全員が簡単な自己紹介。両国とも10人ずつぐらいの参加者だが、韓国側は漫画家さんとネット中毒の専門家?をのぞいて全員ソウル大学(と誰かに聞いた。日本でいう東大ですね)出身の精神科医。日本側は精神科医斎藤環さんだけで、あとは社会学、哲学、心理学、学校関係者、フリースクール主催者、当事者、韓国の若者事情に詳しい方、など多彩。


 僕が「当事者です」と自己紹介したら、気のせいかイリオモテヤマネコを見るような目で見られる。あとで訊いたら、韓国ではヒキコモリ当事者が公の場所で実名を晒して発言するなどあり得ないそうだ。いや、日本でも2000年当時は僕ぐらいだったし、今でも少ししかいませんが・・・*1


 僕の自己紹介中、事前の心配が的中。道路からドアを開けて、50代とおぼしきオッサンが何やらわめきながら乱入してくる。どうやら「お前らこんなとこで何やってんだ、バカヤロー!」みたいなことを叫んでいたらしい。テーブルとかを殴りつけながら会場を横切って出て行った。ああ。


 ところでこの会議、当然だがお互いに相手の言語が分からないので、発言者は自分の発言をみじかく区切って翻訳を待ち、また次の言葉をすこし話す、というやり方。ひどく難しい。いい経験ですが。



*1:ヒキコモリ当事者が実名や顔を晒すことの是非については、後日また取り上げたい。

さて、ちょっと言いにくいのですが・・・・。

 会議の進行にともなって、韓国側の極端な権威主義――としか言いようのないもの――が明らかになってくる(これは日本の精神科医においても同断なんだろうか)。最も年長で真ん中に座っておられるイ(Lee Si Hyung)氏を中心として、座っている順番に見事にピラミッド型の人間関係を成している。イ氏の人脈で来ていただいたせいなのか、あまりにも露骨なヒエラルキーを感じて辟易。


 さらに気になったのが、日本側への対応。韓国側は、要するに「斎藤環」の発言しか期待していないのではないか。というか、質問はまず中央に座っていて「最も権威者」の斎藤環に向けるのが礼儀だと思っているフシがある。斎藤さんが答えている内容は、斎藤さんのヒキコモリ本を全部読んでいる人には周知の内容ばかり。これでは何をしに来たのかわからない。
 まるで「斎藤環とイ氏の対談にみんなが付き合っている」構図。


 イ氏ご自身は「ヒキコモリに関心を向けている時点ですでに韓国では傍流ですよ」とエクスキューズされていたみたいだが、少なくとも日本のヒキコモリ当事者は「権威体質」というものに激しいアレルギー反応を示すし、周囲の人間の権威主義に傷つけられてきた人間が多い。韓国での当事者事情は分からないが、ちょっと気になる。



日韓の違い?

 韓国側はしきりに「ヒキコモリ」という日本語の単語を交えながら発言するんだけど、どうも彼らが想定している状態像と、日本側のそれとはかなり違っているらしい。たとえば韓国では引きこもっている人はほぼ100%インターネットをしているらしいが(対戦型ネットゲームの中毒が社会問題化しているらしい)、斎藤氏によると日本ではかなりの少数派(1割?*1)という。(僕が関わった当事者の多くはネットもメールもしていなかった。お金がない/興味がない/ネットで傷つけられるのがイヤ/といった理由だったと思う。ちなみに僕がネットを始めたのは1998年。ネットに関する技術の習得も含め、あまり熱心なユーザーとは言えないかも。)


 韓国側からは「めんどくさい病」みたいな言葉も飛び出した。家を出るのがメンドクサイ、仕事するのがメンドクサイ、みたいなイメージか。
 あと、韓国の不登校はかなり自己主張するらしい。「行きたくない場所にどうして行かなければならないのか」とか。


 興味深かったのが両国のイジメ事情の違い。日本ではイジメというと、ごく少数の実行犯を大多数の傍観者が黙認して成立する、という感じだが、韓国では「全校イジメ」という形をとるらしい。つまり、たった一人の生徒を全校生徒が寄ってたかっていじめる。すごいのが転校した時で、なんとネットを通じて相手の学校にまで情報が行き、さらにイジメが続く。(正直、「それでは自殺するしかないではないか」と思った。)



*1:これは斎藤環氏の面接室を訪れた人の中での割合だと思うので、もう少し大きな母集団で調査した場合にどうであるかはわからない。 → 日本でのネット普及率と比べたらどうなんだろう。一般には、「ひきこもっている奴はネットばかりしている」というイメージがあるような気がするが。

「共同体回帰」?

 会議では、韓国の不登校への取り組みとして、合宿と共同遊戯(仲間と協力しないと遊べないゲームなど)を紹介したビデオが上映された。小学校低学年への取り組みなのだが、参加にはものすごい大金(たしか30万円?)がかかるらしく、一般的ではない。


 もっと気になったのは、ああした試みが、日本の不登校への取り組みにも見られるような、「共同体回帰主義」の要因を含んでいるのではないか、ということ。日本と韓国では体質が違っていて、どうやら韓国の方が共同体的体質が濃厚らしいのだが(これについては後にいろんな形で聞かされた)、僕自身はそういう「共同体に復帰せよ」みたいなメッセージがひどく苦手で苦しんできたので、韓国にそのような文脈しかないとしたら問題ではないか。【付記:当ブログではかつて「洗脳」というテーマが話題になったことがあるが、誤解を恐れずに言えば、ひきこもり支援には常に「洗脳して社会に復帰させる」という危うい要因がつきまとう。】


 社会から逸脱した人間が再復帰を試みるとき、「共同体回帰」以外のプログラムは提示できないのか。「人間的支援があるにもかかわらず、開放性が維持されている」という難しい状態が重要ではないか。



「治療」?

 会議では、これまでに参加してきた日本のヒキコモリ関連のイベントでは絶対になかったような途轍もないつらさを味わい続けた。これはなんだろうと思ったら、どうやら韓国側の参加者を支配している「ヒキコモリは治療せねば」という雰囲気のせいらしい。彼ら精神科医にとって、「ヒキコモリ」(“隠遁型ひとりぼっち”)というのは飽くまで病的な、「治療せねばならない」対象であって、ひきこもるという行動が自己防衛などの重要な意味をも持ち得る、少なくとも閉じこもること自体が悪いわけではない、といった視点がないようなのだ。道徳的葛藤の余地すらなく、ただひたすら「治療」という大テーゼがある。
 (これは書いていいかどうかわからないが、斎藤環さんもその点を気にして、休憩時間には僕を気遣ってくださった。)




 逆に言えば、ここ数年間に斎藤環さん*1が日本でしてきた啓蒙活動がいかに重要だったか、あるいは僕がいかにその恩恵に浴して活動してきたか、ということだ。あらためて痛感した。


 2000年前後に連続して起こった「ヒキコモリによる犯罪」によって、ヒキコモリは「犯罪者予備軍」として人口に膾炙した。それ以後も「ヒキコモリは甘えだ」*2云々と主に保守的な人々による非難が続いたが、斎藤氏は徹底してヒキコモリ擁護にまわり、TVなどでの発言を続けた。現在では、NHKのサポートキャンペーンをはじめとして、「ヒキコモリ当事者は苦しんでいる」がマスコミ報道の前提となっている*3。「社会問題に精神科医の発言が求められる」という状況を意識的・戦略的に逆手にとって、意図的に権威として振る舞ったわけだ(個人的には、これ以上はないくらいに気さくでフレンドリーな知人なのだが)。


 実は「ヒキコモリ擁護」というのは左翼陣営の人たちもしていて(「資本主義の犠牲者だ」など)、だから斎藤さんだけの功績ではないのだが、イデオロギー的な主張にはない細やかなディテールを持ったヒキコモリ論をしているという意味においては、斎藤氏の功績は大きい*4。最近では安易な斎藤批判で何かを言ったつもりになる人が多いが、やはり戦略的には斎藤氏を擁護しておくべき場面が多い。(難しいのは、ひきこもりが「医療」という枠組みだけでは扱えないテーマだということだ。これについては後述。)



*1:日本の「ひきこもり」の文脈においては、朝日新聞記者の塩倉裕さんを忘れることはできないのだが(塩倉さんの新聞連載は斎藤さんの本より前だ)、日本の文脈では「精神科医」たる斎藤環氏が権威に据えられることになり、マスコミのコメント依頼は斎藤氏に集中した。「精神科医」にすべてを頼ろうとすることへの疑問も含め、そういう文脈上のいきさつは踏まえておくべきだと思う。

*2:私見では、ヒキコモリは「甘え」の問題ではなく「絶望」の問題だ。

*3:NHKの番組にありがちな「ボクたちのことをわかって欲しい」みたいな取り上げ方に問題がないとは思わないが(個人的には激しく苦手)、非難の論調よりはマシというか。その辺の戦略は難しいです、ハイ・・・・。

*4:一般向けのレポートとしては、斎藤氏のものより塩倉裕氏のものが読まれたのではないかと思うのだがどうだろう。僕は「当事者」という立場であり、身近でお付き合いがあるのも当事者やご家族ばかりなので、一般の読者にとっての事情がどうであるのか、よくわからない。

「餓死」というテーマ設定

 ・・・・そう、そういう戦略的な意味合いにおいて、僕は韓国で失敗したかもしれないんだ。
 僕は会議前には、「今回の会議では、何か発展的な論点を示せないか」と息巻いていて、それを集約した話題が「餓死」というものだった。


 当事者も親も若い間は、ヒキコモリは「親が面倒を見るべきか否か」という価値観的な論点で話がすむが、両者ともに高齢化し、親に扶養能力がなくなると、ヒキコモリは価値観の問題ではなく「生きるか死ぬか」という問題になる。端的な話、お金がなくなるのだ。もちろん親も間もなく死ぬ。そのとき、どうするか。働きに出て、稼ぎを作れるか。それとも、閉じこもるしかできなくて餓死するか。


 ちなみに「餓死」という死に方は、きわめて「ひきこもり的」だ。飛び降りや首吊りは、「扉を開けて死の世界に出てゆく」というイメージがあるが、餓死には、「ひきこもったままなし崩しに死んでゆく」というイメージがある。


 「働くぐらいなら死んだ方がマシ」という、子供っぽくはあるがきわめて実感のこもった当事者の言葉を紹介しながら、家を出て働くということがいかに当事者にとって苦痛か(餓死は合理的選択でさえある)、また、斎藤環氏はご自分の立場として「数人の友人ができるまでが精神科医としての私のミッションだ」というのだが、本当のハードルは「それ以後」、つまり就労&その継続にあるのであって、多くの当事者は僕も含めて「経済的自立」の問題で行き詰まっている。これまで、日本のひきこもり関連のシンポジウムではパネラーは精神科医かカウンセラーだったわけだが、今後は労働や雇用問題の専門家にも参加してもらうべきではないか。


 会社勤めをしている友人の多くは、仕事をして生きていくことは本当に苦しいことだと繰り返し言い、「ひきこもっている人に、『家を出ればこんなに素晴らしい人生が待っているから、だから出ておいで』とは、とても言えない」とつぶやく。経済状況や労働環境の問題が、明らかに「ひきこもり」に関連しているのだ。【この1段落の内容は会議では触れていない】


 ハローワーク職業安定所)では、仕事の紹介はしてくれるが、心のケアはしてくれない。逆に精神科医に相談に行くと、精神的な悩みの話は聞いてくれるが、仕事のことを相談しても「まぁ、焦らずにいきましょう」としか言ってもらえない。
 多くの人は「仕事に就けない/続けられない」から深刻に苦しむのであって、心のトラブルと就労問題は密接に関連している。つまり、精神科医ハローワークの両方(厚生労働省の「厚生省」的側面と「労働省」的側面の両方)の機能をあわせ持った相談機関が必要なわけで、


 云々・・・・といったことを話した、わけだが・・・・。


 気がついてみれば僕の発言はほとんど顧みられないまま、「治療せねば」というテーマ性ばかりが先行してゆく。しまった。ここは「発展的な」発言を目指すべきじゃなくて、まずは斎藤環の主張をインストールしてもらわねばならない場面だったんだ*1。うかつだった。


 「ヒキコモリそのものを治療すべきというわけではない」という前提をすっ飛ばしていきなり「労働」の話をしてしまうと、「働け」という強圧的な説教と取られかねない。それを避けるためにも選んだアクロバティックな論点が「餓死」だったのだが、あの韓国側の雰囲気では、危機感を煽ってしまい、ますます「治療せねば」と思わせた気がしてならない。





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*1:いや、そもそも韓国側からすれば斎藤氏の主張も「日本側の事情」であって、「韓国側は韓国側」なのだろうか。この辺、今の僕にはまだよくわからない。

休憩時間

 共同通信(だったと思う、ウロ覚え)の記者さんに呼び止められる。会議にあたって、どういったことをお考えですか、と聞かれたので、「ヒキコモリは若い間は価値観の問題ですむが、高齢化とともに生き死にの問題になってゆく」という趣旨の発言をする。(帰国後に関東の知人が教えてくれたが、あちらではその発言がそのまま僕の名前とともに記事になっていたらしい。)


 休憩中、斜め向かいに座っていたイ(Lee Si Hyung)氏が僕に日本語で優しく話しかけてきた。(あの世代は皆さん話せるんですね・・・)

「また自分がひきこもってしまうかもしれない、と思いますか?」
「うーん、難しい質問ですね。また引きこもってしまうかもしれません。そうなってしまうのをとても恐れています。いや、本当にわからないです。いや、正直、本当にツライ質問です」

「あー・・・・」と、笑いながら溜息をつき、後ろに身をのけぞらせたイ氏。個人的にお話するには悪い方ではないらしい。とても好印象。





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社会的・人文的観点

 後半が始まった。


 鈴木謙介さん*1、漫画家のイ・ヒョンソク(Lee Hyun Seok)さん(都立大に留学中)*2が、社会学の観点から興味深い指摘をしてくださる。高度成長期を終えた日本の事情、日本と韓国の若者文化の変遷、日本で好まれる宗教の変遷(来世利益から現世利益へ?)など、とても面白かったのだが、詳細は忘れてしまった(『中央公論』の記事でも取り上げられておらず、残念)。とにかくこれらの発言で、今回の会議でやっと呼吸ができた感じ。いやはや。


 鈴木・イ・両氏の社会文化論的指摘についても、韓国側の精神科医たちはとまどっていたようだ。そういう議論を聞かされること自体を想定していなかった、という風情。やはりポカンとしていた。【付記:と、僕は思ったのだが、斎藤さんのレポートによると韓国側の精神科医にも「社会的問題として」捉える方がおられたようだ(Yeo In Joong 氏)。これは僕の印象間違いか?】


 このとき、物凄い大活躍を見せたのが漫画家のイ・ヒョンソクさん。通訳やマスコミを含む会議参加者の中で、日本語と韓国語の両方を完璧に理解し、かつ両言語の理論タームを熟知しているのがイさんだけだったのだ。イさん自身の日本語がとても的確で問題をよく捉えているから、「この人に翻訳してもらえれば的確に伝わっているはずだ」という安心感がある。イさん自身はまず日本語で意見を述べて、それから自分でものすごいスピードで翻訳していた。他の場面はともかく、この社会学的な観点を導入した議論の場面では、イさんがいなければやり取りが成立しなかった。


 ところでこのイさんの発言で興味深かったのは、「日本に来て、すごく楽になった」という点。韓国では一人で外食をしていると「なんだアイツは」となるらしい。ところが日本では何も言われない。すごく楽だ、と。どうも韓国では、「仲間と一緒にいること」が当然の社会行動として要求されるようだ。
 うーん、それは確かに苦しいぞ。



*1:会議について、鈴木謙介さんご自身のエントリがあります。

*2:精神科医のイ氏と混同してしまうが、韓国では「名字」がものすごく少なくて、5つぐらいでほとんど全国民を網羅できるとか。だから銀行で呼び出されるときも、名字じゃなくて下の名前で呼ばれるんだって。

「解決」ではなく

 他にもネット中毒の問題など、いくつかの話題が出たが、会議全体を覆う「治療対象としてのヒキコモリ」という雰囲気がとてもつらくて、実はそれ以上はあまり覚えていない。


 発言者席に座っている当事者は僕だけだったが、会場には他にも日本人当事者がいて、短い発言を求められていた。一人はたしか18歳の男性で(これから大学を目指すという)、韓国側の精神科医から質問も出ていた(内容は失念)。




 会議の最後、司会者の方が締めとして、「・・・ヒキコモリの solution を・・・・」という言葉を口にされたので、「ちょっといいですか」と手を挙げて、発言を許可してもらった。

 いま、「solution(解決)」という言葉を使われました。先ほどからも「臨床」ということが言われているわけですが、ヒキコモリを「治さなければならない」とだけ考えてしまうと、その「治療」というテーマ設定がほかの議論すべてを排除してしまって、議論そのものがものすごく貧しくなるんですね。で、その議論の貧しさが、ものすごいストレスを生むんです。
 ひきこもりというのは、本人自身にとっても「なぜこんなことになってしまうか」が分からない、あるいは親や精神科医、支援者など、関係者のすべてにとってもその理由がわからない――ということは、どうすればいいのか誰にもわからない――状態で、その意味で、誰にとっても≪問い≫だと思うんですね。
 韓国側の皆さんにぜひお願いしたいんですが、どうかその「ひきこもりは問いである」という認識を、共有してもらえないでしょうか。

 だいたいこんな話だったと思う。翻訳されたら、何人かの方がメモを取っていた。どうか伝わっていますように。(この最後の発言は『中央公論』記事では全面カット)




 司会者が会議を締めくくった。


 いやあ、疲れたずら。マジで。









いま思うこと

 「ヒキコモリ」の問題は、それがひどい苦痛を伴うという意味においては「医療」の問題だし、日本においては文脈上まずは精神科医が啓蒙のイニシアチヴを取る意味があったと思う(「犯罪者予備軍」「甘えている」という偏見に対抗するには、いったん医師が「医療」の問題として取り上げ、しかもその当の精神科医自身が「ヒキコモリ」を肯定する、というアクロバティックな身振りが必要だったのではないか)。


 だから文脈上・戦略上の意義は無視できないし、それだけでなく内実としても精神科医の方々に果たしていただきたい役割は重大だと思うのだが(僭越な言い方でスミマセン)、「ヒキコモリ」という大きなテーマ設定を俯瞰的に考えてみれば、「医師」に担える役割というのはあくまで部分的なものであることに気付く。
 しつこいようだが、医師の役割を軽視したいのではない。「医師」という肩書きがなければできない手続きや対応があるのだし(行政との関係、クスリの処方、他疾患の可能性の診断など)、相談窓口としてはどうしても必要な存在だ。
 だが、会議録でも少し触れたように、ヒキコモリというテーマには様々な要因が絡んでおり、中でも本質的なのは社会的・人文的要因*1、そして「職業生活」だと思う。


 社会的・人文的要因ゆえの苦痛、そして「働けない」がゆえの苦痛――そうした事情において、「精神科医」が果たし得る役割はおのずと限られてくるはずだ。【付記:斎藤氏はこの僕の指摘をレポートで取り上げてくださっている。こうした点も、僕が彼を信頼できる理由だ。】


 斎藤環氏は「精神科医」という立場に立ちつつ、精一杯「倫理的」に振る舞おうとしているのだと思う。そしてヒキコモリが「医療」という枠内では扱いきれないテーマであるとしたら、彼(精神科医)が為しえない仕事は、他のポジションにいる人間が担わなければならない。




 僕自身は、自分の最大テーマは「苦痛除去」だと思っている。だからその意味で僕の発想は医師的だとも言えるのだが、人間の苦痛を除去するには、体のことだけを考えていればいいわけではないし、そもそも「医療的」に振る舞えば振る舞うほど、苦痛をいや増してしまう、という皮肉な事情がある(「臨床的」であろうとすればするほど「臨床的」でなくなる、というような)。
 僕自身は社会的には医師というポジションにはないわけだから、人文や経済を含んだ、もう少し領域横断的な発想をするべきなんだろう。


 ところで斎藤さんは『ひきこもり文化論』(ISBN:4314009543)という人文的な本を書かれている。その書評でも書いたが、既存のヒキコモリ論に欠けていて自分が必要だと思う論点については、各人が自分の力で提出し奮闘するしかないのだろう。ないものねだりではなく、自分が実際にやってみせて魅惑すること!(ああ、またれいの論点だ!)




 というわけで、おしまいおしまい・・・・。


 ご清聴ありがとうございました。




(幕)



P.S. 3月27日、大阪で、関西の民間支援団体や行政相談窓口の「合同説明会」*2があり(画期的なガイドマップも配布されました*3)、その前座のシンポジウムで、永冨奈津恵さんとパネラーをしてきました。やっぱりいろいろ考えたので、またレポートしまーす。約束を破るかもしれない前提でお待ちくださーい。









【注】

*1:少々唐突に聞こえたろうか。これは今後考えていきたい問題だ。

*2:これがいかに画期的かは、少しでも支援業界の事情を知っている人ならお分かりでしょう。

*3:入手希望の方は「A’ワーク創造館」までお問い合わせください。1部1000円です。「ひきこもり支援団体のガイドマップが欲しい」と言えば通じるはずです。