「課題脱落的」と自発性

「社会に参加しなければならない」「生きなければならない」という無条件の課題設定は、この課題を持続できない、あるいは課題そのものを共有できない存在を二重に排除する。
「社会参加」「生きよう」という課題共有を無条件に前提にした周囲の努力や呼びかけは、その課題に向けた自発性の起動や賦活に失敗した事例を二重に排除*1する。脱落事例への、制度的・道徳的排除。両排除が相互補強する。


グループ成員のうち、1人(一部)だけが制度的にも道徳的にも脱落する場合、他成員からは「現実逃避」=「課題を遺棄するな」と非難される。理由はわからないが、構成員の一部が設定課題から脱落している。【制度・心理・道徳などの共犯?】


精神分析系の議論では、無意識は「拾われること」を原理的に求めているとされる(ex.「声の回帰」「痕跡」)。しかし「ひきこもり」において原理的に問題になっているのは、「どこまでも無際限に≪降りよう≫」とする衝動。 拾われることを待つ当事者(無意識)と、降り続けようとする当事者*2。 「無視されたくない」と「消えたい=忘れてほしい」のせめぎ合い。 【ひきこもりという論点においては、「拾われようとする」課題と「降りようとする」課題がせめぎ合っている。】
当人の意識の中にすら、両方の課題設定がある。「参加せよ」という、抵抗不可能なほど内面化された無自覚的な課題設定があり、これが「降りるしかできない」という自分の実状*3を責め続ける。「参加を!」「脱落を!」の両課題を統合する場所が見つからない。 「降りよう」とするベクトルと「参加しなければ」という課題が議論のテーブルを共有できない。


1つの課題における≪当事者≫設定 → そこに掬われない存在が必ず発生し、承認された課題設定から排除される(ひきこもり問題内におけるマイノリティ化)。 社会の中で、自分の(自分という)課題に居場所を与えられない、自分をシステムの複層性の中に居留まらせることに無限に失敗し続ける、という「純粋ひきこもり」の原理的な像(機能的に仮構されたもの)*4
「共有を目指したどのような課題設定からも脱落し排除されてしまう存在」を、フィールドワーク的にではなく原理的に設定すべき。「課題共有」において無能な、あるいは排除された存在。 → 既存制度を、脱落者をも包摂可能な形に改変する終わりなき努力と、既存制度のままに脱落者が順応する*5ための個人訓練(修行)、両方が要る。


人間力を高める国民運動」という言い方において重要なのは、それが「課題共有」を呼びかけるスローガンであること。「人間力を高める*6」という曖昧な表現なら、「生きること」という誰でも共有できる(と思われている)課題経由で、全員に論点共有を迫れる。【この課題を共有できない個人は「国民運動を共有していない」ことになり、「非国民」。】
保守派がニート・ひきこもりに求める「強制労働」は、「課題共有せよ」という苛立ちと恫喝。当事者は課題を共有できないまま怯える。 ≪「生きたい」という自発性を維持しており、その自発性に基づいた権利(生きる)を享受しているなら、そこには責任が発生するはず【責任の淵源としての自発性】。「生きたい」のなら義務を果たせ≫。 → 「生きたい」という意思(自発性)が明確なら、権利義務関係でバトルを続けられる。しかし、「生きたい」という自発性そのものに疑問があるなら、「生きたいなら○○しろ」という恫喝が意味を成さない。この世の「生の世界」を維持したい権力者たちや勝ち組たちは、「この世という課題から脱落したい」という存在を説得できない。
「生きること」が、どうしても自発的になれない「働くこと」を無条件の前提にしており、そもそも「生きること」自体が強制的受苦でしかないなら、「生きること」を前提にした課題設定はすべて「強制」になる → 「自逝センター」が、むしろ自発性を救済する。


制度的・法的・倫理的に、かつマクロ・ミクロあらゆるレベルで、「参加できる」「脱落できる」双方の可能性(選択肢)が、追求されるべきではないか。自由度を増すために。


降りようとする人間は、往々にして「最後の最後まで引き受けぬいた、もういい」という人。
適当に逃避的で適当に引き受けている人は、うまく乗り切っている、誰かに押し着せつつ。そういう人が最も過激に「降りるな!」*7と言う。
「降りてはならない」という無条件かつ暗黙の、逆らえない前提は、ひたすら「降りたい」という衝動を、「この生きる世界という課題そのものから降りたい」という無言の(氷のような)硬直を生む。
ところが、この「生きる課題から降りたい」という願望を熱く語り合えた時点で、生きるほうにベクトルが少し向いている。降りる衝動を熱く語り合うことには、なにがしかの積極性・自発性がある。
この自発性を見捨てるなら、課題共有はあり得ず、コミュニケーションは成り立たない。


≪自発性≫は、言葉のレベルに宿っている気がしてならない。そして言葉とは、誰かと共有するものであり、この世は、課題として共有されている。言葉は課題を共有しようとするが、私たちの生活課題は、私たちの言葉双方の課題を孤立させる。
生活課題の分断はコミュニケーションを分断する。
この世は、共有課題ではなく、「生きようとする」ためには、課題を孤立して抱えねばならない。
課題は、孤立すれば抹消しても構わない( → 自死願望)。


課題から自発性に向かう*8のではなく、自発性が課題を見つけなければならない*9
自発性という、最も弱く、最も重要な要因。





*1:最初の排除と、その「排除されている」という事実を理由にした二次的な排除と

*2:死の欲動? 「芸術的なまでの逃避」?

*3:内部と外部の共犯? 「できない」という思い込み?

*4:「政治的敗北」

*5:既存制度適合的な課題を共有する

*6:宮崎駿アニメすら教材として使えそうな気がする

*7:「降りたら死ぬぞ(殺すぞ)」という恫喝を含んでいるが、生からすら降りたくなっている人には効かない脅し、というより「じゃあ降りる」でしかない。

*8:「国民運動」「国を愛する義務」「子供を産む義務」etc...

*9:結果的にそれが「国」「子供」を見出す(と本人が思い込む?)こともある。