専制国家だけでなくあらゆる制度は「生活様式および習俗を決して変えてはならないということが、主要なる格率である」



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 専制的国家においては生活様式および習俗を決して変えてはならないということが、主要なる格率である。これより以上迅速に革命をもたらすものは他にない。これらの国家には、法律などは存在しないと言えるからである。そこにあるのは生活習慣と習俗だけである。そして、もし諸君がこれをひっくり返せば、諸君はすべてをひっくり返すことになる。
 法律は制定されるものであるが、習俗は鼓吹されるものである。後者はより多く一般精神に結びつき、前者はより多く特殊の制度に密着している。ところで一般精神をくつがえすことは、特殊の制度を変更するのと同じくらい、いやそれ以上に危険である。
    −−モンテスキュー(野田良之他訳)『法の精神 中』岩波文庫、1989年、165頁。

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フランスの哲学者フーコーMichel Foucault、1926−1984)は「生権力」という概念を用いることで、権力論に新たな地平を切り拓いたことで有名です。

近代以前の権力(そしてその権力「観」をいまなお引きずっているわけですが)というものは、命令に従わなければ殺すというわかりやすいものでしたが、近代以降の権力の特色とは、ひとびとの生活に積極的に介入しそれを管理し方向付けようとする特徴をもっております。

「殺す権力」から「生かす権力」。

こうした特徴をもつ近代の権力を「生-権力」とフーコーは呼びます。

そしてフーコーによればそれは二つのパターンをとって現出するわけですが、ひとつは、それぞれの人々の身体に働きかけていく方向性。人間の身体を規律正しく従順なものへ馴化・調教しようとする特質です。フーコーは学校や工場、軍隊において働くこの種の権力を「規律的権力」と表現しました。

もう一つは、国勢調査的マクロなアプローチです。統計学的調査をつかって対象の全体に働きかけ、「健康」「人口」をキーワードに全体を管理しようとする方向性です。

さて……
フーコーの権力論のアクチュアリティはどこにあるこというと、近代化をもてはやす進歩史観の陥穽を怜悧に批判したというのがそのひとつでしょう。

近代化とは何か。
いくつかポイントはあるかと思うのですが、近代になって個人の自由が広く認められる社会というのがそのひとつでしょうが、フーコーの権力論はそのステレオタイプを覆したところにあるといえます。

近代市民社会の誕生とは、それ以前の絶対君主的領邦国家の「殺す権力」からひとびとを解放したわけですが、それは同時に個々の人間を「生かす権力」として巧妙に支配管理する権力技術が発達してきた時代であったという指摘です。

この指摘は何を示唆するのでしょうか。
昨日も少し言及しましたが、要するに、政治権力を奪取しさえすれば理想的な社会が到来すると見なすマルクス主義的な権力観に対する徹底的な批判として提示されたというわけです。

確かに、スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942−)によって批判されるようにフーコーの権力論には限界も存在しますが、単純なものの見方を覆したという点では見過ごすことのできない指摘ではないかと思います。

さて……。
前ふりといいますか、フーコーの紹介が長くなったのですが、その「生権力」はどこで昨日するのでしょうか。

それはひとりひとりの人間が生きている生活空間においてなんです。

「生かす」ということは、つまり「今日」を永遠に継続させていくということ。
そして「今日」から逸脱する人間は「殺される」のではなく、矯正・調教のうえ、「今日」に送り返されるという仕組み。

そしてその「生かされる」「今日」の存在する「生活空間」とは具体的には何でしょうか。

すなわち、それは「生活様式および習俗」です。

だからこのコードを変更することは、ご遠慮願いたい。

それが「生かす権力」のホンネでしょうwww







⇒ ココログ版 専制国家だけでなくあらゆる制度は「生活様式および習俗を決して変えてはならないということが、主要なる格率である」: Essais d'herméneutique


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