「伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである」から、その馴化の薄皮を剥がしていく「ゆるふわ」な時間について
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起源の捏造・伝統の創造
なぜ、女ことばの起源についての言説が発生し、このように価値づけされた女房詞や敬語が持ち出されたのでしょうか。それは、女ことばを「日本が古くから保ってきた伝統」と位置づけるためです。「伝統は創り出される」という視点を提案した歴史家のホブズボウムとレンジャーは、「伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである」と指摘しています(『創られた伝統』)。
このような操作が行われるのは、近代国家には伝統を創り出す必要があるからです。ひとつの国家という幻想を創り出すためには、ある程度まとまった人数の「国民」が、ある程度まとまった「国土」にいるだけでは十分ではありません。その国民すべてに共有された国民の歴史や国民の伝統を創り出すことが不可欠なのです。「同じ国家の国民」である」という意識を持つためには、同じ歴史を共有し、同じ伝統を守ってきたという幻想が必要なのです。
「伝統は創り出される」という考え方を取り入れると、女房詞や敬語を女ことばの起源とすることは、「女ことばと過去の連続性を創り出す」行為であることに気づきます。この時点で女ことばは、天皇への敬意に端を発した女たちが守り続けてきた日本の伝統になったのです。
−−中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書、2012年、147−148頁。
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金曜日の哲学の第二講終了。この日から本格的な授業がスタートしました。
授業での反応とリアクションペーパーを読む限り、感触は悪くないといいますか、キャリア教育隆盛の中では、もう学生たちは、自主的に学ぶというよりも、課題の予習と復習でてんやわんや。
考える時間もないというのが実情ではないでしょうか。
その意義では、哲学が息抜きとして機能しているといいますか、「ゆるふわですね」などとコメントも(苦笑
しかし、それはそれで大事なのではないのかと思ったりします。歴史と今生きてる社会との相関関係を断ち切らずに、テクストと向かい合い、自分自身の事柄として考察し、何が正しいのか、自分で考える。そして考えた事柄を友達と話し合って相互訂正していく。
時間の経過としては「ゆるふわ」でしょうが、人間が生きる上では、大切なモメントではないかと思います。
さて……。
通勤時に言語学やジェンダー研究の知見から(国家イデオロギーを担って生き延びた)女ことばの歩みを概観する中村桃子『女ことばと日本語』(岩波新書)読んだので、授業で紹介したら早速読んでみますという学生がちらほら。自明という虚偽の認識を新たにするのが「真理の探究」だから、これは嬉しい。
覚え書:「書評:ステーキを下町で [著]平松洋子 [画]谷口ジロー [評者]保阪正康(ノンフィクション作家) 」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。
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ステーキを下町で [著]平松洋子 [画]谷口ジロー
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家) [掲載]2013年04月07日 [ジャンル]ノンフィクション・評伝
■思い出も重ねる「食する旅」
著者の文体にはリズムがある。北海道から沖縄までの「食する旅」のメニューにふれながら、読む側も食後感を味わうのは、まさにこのリズムのせいだ。鹿児島で「黒しゃぶ」の「じわ、じわ、しっかりとうまみが湧き出る」風格を味わう。下北半島で「鮟鱇(あんこう)」料理を前に、「目がうれしがってどこから箸をつけようか迷いに迷う」、その抵抗感がなんとも楽しい。
実は本書は、そのような「食する旅」だけが売りではない。帯広で味わう「豚丼」を通じて十勝開拓の先達・依田勉三らの辛苦を偲(しの)ぶ。三陸海岸の「うに弁当」を語りながら、被災地への励ましを奥ゆかしく伝える。京都の「うどん」を味わいつつ、人の縁に驚く。東京・下町の肉料理に父親の思い出が重ね合わされる。
「食」とは記憶する脳やその場に駆けつける脚力、私たちに何かを訴える食材を慈しむ視覚、そして時間と空間を共有した人たちの織り成すハーモニーでもある。
◇
文芸春秋・1575円
−−「書評:ステーキを下町で [著]平松洋子 [画]谷口ジロー [評者]保阪正康(ノンフィクション作家) 」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。
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覚え書:「今週の本棚:想像ラジオ=いとうせいこう著 中島岳志 評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。
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今週の本棚:想像ラジオ=いとうせいこう著 中島岳志 評
(河出書房新社・1470円)
声に耳を澄ませば・・・死者は生きている
あの日、津波が去った後、高い杉の木の上に一人の男が引っかかった。DJアーク。赤いヤッケ姿で、姿勢は仰向けだ。
彼は自らの死を認識しないまま、人々の想像力を電波にラジオ番組を流し始めた。それが「想像ラジオ」。リスナーの多くは死者だが、生者にも届く。大切なのは、生と死の二分法ではなく、聞こえるか聞こえないか。
現代は、あっという間に死者を忘却する。までるで忘れることが、社会を前に進める唯一の道であるかのように。何もなかったように事態にフタをして、次に進もうとする。
「いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」−−それは、声を聴かなくなったから。
しかし、「想像ラジオ」のリスナーは、死者の声に耳を傾ける。DJアークの声は、イヤホンから水滴のようにつたい、世界をつなぐ。死者と生者が手を携え、一歩一歩、前に進む。
時に「想像ラジオ」の音は、言葉にならない。声にもならない。しかし、人々は意味を聞く。言葉にならないコトバが、そこには存在する。
死者とは一体だれか。彼らは生者とは別の「霊界」に住んでいるのか。そこは、この世とは切り離された別次元の領域なのか。
そうではない。死者の世界は、生者がいなければ存在しない。「生きている人類が全員いなくなれば、死者もいない」。両者は切り離すことのできない、密接不可分の存在なのだ。
生きている我々は、大切な人が亡くなると、喪失感を味わう。その人の空白に絶望し、生きる希望を失う。しかし、二人称の死は単なる喪失ではない。必ず我々は、死者となった他者と出会い直す。生者同士の頃の関係とは異なる新たな関係が生まれる。
だから、死者は生きている。そうとしか言いようがない。
DJアークは、言葉を紡ぎながら、そしてリスナーの声に耳を傾けながら、徐々に事態を把握していく。大地震がやってきて、津波にさらわれたこと。濁流に飲み込まれながら、杉の木に引っかかったこと。そして、もう息をしていないこと。
彼は、放送を続けながら、どうしても「あること」が気になる。それは、妻と息子と連絡が取れないことだった。
二人の声が聞こえない。どうしても聞こえない。二人は「想像ラジオ」のリスナーなのか。
DJアークは、生者に向けて声を届けようとする。妻の名前を叫んでみる。しかし、反応はない。
生者が死者の声をキャッチするのは、悲しみが湧く時だ。それは、不意にやってくる。あとは耳を澄ますことができるかどうかだ。
この悲しみこそ、死者のささやきのサイン。「本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタジオであり、今みんなに聞こえている僕の声そのものなのかもしれない」
DJアークは、リスナーから励まされる。「想像せよ」と。その想像は、生者の心に悲しみを芽生えさせることができるか。想像と想像が重なる時、死者と生者は出会うことができるのか。
ラストシーンに、心の奥底から涙があふれた。
フィクションは、リアルを越えたリアルに迫る。荒唐無稽なシチュエーションこそが、現実以上の現実をあぶりだす。これが文学の力だ。
ポスト3・11の文学に、ようやく出会えた。間違いなく傑作だ。
−−「今週の本棚:想像ラジオ=いとうせいこう著 中島岳志 評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。
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