覚え書:「追悼式、3県遺族代表のことば(全文) 東日本大震災4年」、『朝日新聞』2015年03月12日(木)付。

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追悼式、3県遺族代表のことば(全文) 東日本大震災4年

2015年03月12日
 ■負けてないで頑張らなきゃ

 宮城県代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身

 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。

 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

 あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

 しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 そんな体験から今日で4年。

 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。

 しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。

 震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。

 最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。

 ■その悲しさを優しさに

 岩手県代表、内舘伯夫(みちお)さん(38)=山田町出身

 はじめに、いまだご遺体がみつからない方々のご冥福を祈り、ご遺族の方々にお悔やみ申し上げます。

 あれから4年が経ちます。毎日の生活の中で、ふとした時に、父との温かい思い出に優しく包まれます。そして、その少し後に、あの大きな津波の光景と冷たい泥や無数のがれき、父の遺体と対面した記憶がよみがえり、悔しさで胸が苦しくなります。

 そんな時は、父が、「俺のことよりも他の人を」と言っている気がします。津波にのまれるときに、父が最後にそう伝えていたのかもしれません。私よりも、もっとつらい体験をされた多くの方々を思い自分の気持ちをこらえます。

 数百年数千年に一度と言われる震災を経験した私たちは、時の経過と共に前へ進みます。形あるものは、いずれ復興を遂げ後世に残るでしょう。

 時々、時間とは反対に進む気持ちがあります。記憶が少しずつ薄れゆくのではないかという恐怖と、胸に閉じ込めた記憶を忘れてはいけないという気持ちです。しかし、それを思い出せば、悲しく、悔しく、後悔と自責の念に駆られます。

 形あるものの復興と共に、私たちがこれからの数百年数千年先へ、その悲しさを優しさに、その悔しさを何かを許す心に、その後悔と自責の念を生きている私たちがお互いを思いやり助け合う心にしたことを、伝え残していくこと。

 それが、私たち日本がこの震災を乗り越えた証しとなり、亡くなった方々への最大の敬意であると信じ、一日一日を大切に過ごしていきます。

 ■復興に向けて一歩ずつ

 福島県代表、鈴木幸江さん(32)=浪江町出身

 私の住んでいた福島県浪江町は、人口約1万9千人の山と川と海の豊かな自然に囲まれた、心温かな方々が住むのどかな町でした。

 その町で穏やかな生活を送っていたところ、平成23年3月11日、突如発生した大地震と大津波により、父、母、そして弟を失いました。

 私の大切な家族の命を奪ったあの凄(すさ)まじい光景は、今でも忘れることができません。

 そして、大震災発生から4年経った今でも、原子力発電所の事故による放射能の問題のために町に戻れない状態が続いており、将来の展開がなかなか見通せないことについて、やりきれなさを感じています。

 大震災から丸4年が過ぎようとする今、残された私たちがなすべきことは何かと考えた時、多くの尊い命が犠牲になったことを教訓として、二度とこのようなことを繰り返さないために、そしてこの大震災を風化させないために、この経験を次の世代に伝えていくことではないかと思います。

 また、自衛隊、警察、消防をはじめとする多くの皆様が、身の危険もかえりみず救命・救助活動に当たっていただいたことや、全国の皆様から物心両面でご支援いただいたことに対しまして、改めて心より深く感謝を申し上げます。

 最後に、復興に向けては、放射能の問題、住宅の再建、農地の復旧など、まだまだ課題が山積しておりますが、ひるむことなく、みんなで力を合わせて一歩ずつ努力していくことを、大震災の犠牲となられた方々に改めてお誓い申し上げ、遺族代表のことばといたします。
    −−「追悼式、3県遺族代表のことば(全文) 東日本大震災4年」、『朝日新聞』2015年03月12日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11645172.html


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祈る、大好きな人へ 動けぬ母に最後の言葉 東日本大震災4年

2015年3月12日

写真・図版東日本大震災地震発生時刻に、宮城県南三陸町の防災対策庁舎前で手を合わせる人たち=11日午後2時46分、森井英二郎撮影

写真・図版

 東日本大震災から11日で4年を迎えた。死者1万5891人、行方不明者2584人。避難生活を送る人はいまも約22万9千人にのぼり、避難先は福島・宮城・岩手を中心に47都道府県のすべてに及ぶ。地震の起きた午後2時46分、各地で犠牲者へ祈りが捧げられた。

 政府主催の追悼式が11日午後、東京都千代田区国立劇場であった。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相ら約1120人が参列。被災3県の遺族代表が追悼のことばを述べた。

 宮城県代表は、母(当時35)と祖母(同64)、曽祖母(同83)の3人を津波に奪われた菅原彩加(さやか)さん(19)。《15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました》。祭壇に向かい、読み上げた。

 石巻市大川地区の自宅で大きな揺れに襲われた。家族は、買ったばかりのテレビが倒れることを心配していた。その矢先。濁流にのまれた。気づくとがれきの山の上だった。足元から低い声が聞こえた。「さやー」。母の理子(りこ)さんだった。

 《釘や木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。がれきをよけようと頑張りましたが、私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここにいたら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に、私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました》。声をふるわせた。

 高校入学後、60回近く体験を語ってきた。でも可哀想と思ってほしくないという。あの時の判断を問われると「仕方がなかった」と答えてきた。

 仮設暮らしの祖父、秀幸さん(64)は、ふびんに思って声をかけた時の答えが忘れられない。「自分は不幸じゃない」。彩加さんは泣いて抗議したという。明るい性格の孫が理不尽な境遇を懸命に生きているように、秀幸さんには見えた。

 それでも彩加さんには、母を思って涙がこみ上げることがある。片付けをせずに怒られたこと、一緒に洋服を選んだこと。浮かぶのは「あの日」ではなく、家族が一緒だった日常だ。

 《失ったものは、もう戻ってくることはありません。悲しみが消えることもないと思います。しかし前向きに頑張って生きていくことが、亡くなった家族への恩返しだと思い、生きていきたい》

 春からは神奈川県の大学に進み、防災学をまなぶ。

 (中林加南子、吉浜織恵)

 ▼37面=3県遺族代表のことば全文
    −−「祈る、大好きな人へ 動けぬ母に最後の言葉 東日本大震災4年」、『朝日新聞』2015年3月12日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11645253.html








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