『書いてはいけない』(森永卓郎著・三五館シンシャ)~日航123便墜落の隠された真実~

森永卓郎氏の最新刊『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』の帯にはこうあります。コミカルタッチのカバーは頂けませんが、深刻極まりないテーマを掘り下げています。

<2023年12月、ステージ4のがん告知を受けた。「命あるうち、この本を完成させ世に問いたい」私はそれだけを考えた>

メディアがタブー視して決して取り上げようとしないアンタッチャブルな話題が3つあると森永氏は言います。そのうち、以前、当ブログで取り上げた「財務省のカルト的財政緊縮主義」と「ジャニーズの性加害」については割愛し、最も世間が驚愕するに違いない「日本航空123便の墜落事件」(本書第3章)に絞って、森永氏が明らかにした真実を解説していきます。

「墜落事故」ではなく「墜落事件」とある点にお気づきでしょうか? 1985年8月12日(月)18:56:30、羽田空港から大阪・伊丹空港に向けて飛び立った日航123便御巣鷹山に墜落しました。以来、単独機による史上最悪の航空機事故として記憶され、毎年お盆が近づくと必ず当時のことを思い出します。あまりにも衝撃的なニュースだったので、連日深夜まで、独身寮でテレビに齧りついていた記憶があります。第一報をメディアが報じてから翌朝になるまで、墜落地点が二転三転し、救出活動が始まらないことに名状し難い違和感を感じました。自衛隊在日米軍がレーダーで機影を補足できないのは何故なのだろう・・・と不思議でなりませんでした。その後、『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』(朝日文庫)や吉岡忍の『墜落の夏―日航123便事故全記録』(新潮文庫〉など関連書籍をずいぶん漁りましたが、釈然としません。今もわだかまりを抱えたままです。

同じような違和感を覚えていた森永氏は、墜落事故から30年以上経った2017年7月、日航の客室乗務員だった青山透子さんが著した『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社)と出会います。2020年7月、青山さんは続篇ともいうべき『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』(同)を出版し、誤って航空自衛隊から発射された何らかの飛翔体(ミサイル等)が日航123便に衝突した可能性が高いと合理的推論を展開しています。さらに驚愕すべきは、第4エンジンだけが主翼から外れ粉々になって広範囲に散乱した原因を自衛隊機による(誤射隠ぺいのための)追撃によるものだとしている点です。オレンジ色の飛翔体が地上から目撃されていることや、墜落前に(スクランブル発進機とは違う)2機のファントムが追尾していたという複数の目撃証言のあることを合理的に説明するためには、主たる墜落原因=圧力隔壁の修理ミスだけではどうにも腑に落ちません。墜落現場のご遺体が通常の航空機事故では見られないほど炭化が著しかったという事実についても。納得のいく説明が必要です。こうした見方を陰謀論と片づけるのは簡単ですが、不可解な点があまりに多く、事故原因は未だ藪のなかなのです。

ご遺族が日本航空に対してボイスレコーダーやフライトレコーダーの開示を求めた訴えは、2023年6月、東京高裁において請求棄却の判決が下されています。その理由は(損害賠償をめぐる)、和解契約において原告がこうした請求権を放棄しているからだというのです。森永氏が言うとおり、血も涙もない「門前払い判決」です。データの開示が、政府・自衛隊にとってパンドラの匣を開けるかの如、極めて不都合な真実を炙りだすことに繋がるからに違いありません。三権ががっちりとスクラムを組んで国民から真実を隠蔽しているとしか思えません。

「三鷹市吉村昭書斎」を訪ねて|ミクロコスモスとしての書斎

吉祥寺通りと玉川上水が交差するところに萬助橋という名の小さな橋が架かっています。鴛鴦夫婦として知られる吉村昭津村節子夫妻の自宅は、その萬助橋から東へ徒歩数分、井の頭恩賜公園の西エリアに隣接する閑静な住宅街の一角にありました。井の頭恩賜公園の自然が身近に感じられる立地に惚れ込んで購入を決めたそうです。吉村昭(1927-2006)の書斎は、母屋から独立した「離れ」として建設されたものです。生前、夫婦で旅行に出掛けても「早く書斎に戻りたい」と言うほど、氏にとって心安らぐ場所だったといいます。

三鷹市吉村昭書斎」は、元あった場所から京王井の頭線井の頭公園駅にほど近い住宅街に移築され、今年3月9日に開館しました。吉村昭は、現在の荒川区東日暮里の生まれで、空襲で実家が焼失するまでの18年間を荒川区で過ごしています。そのため、荒川区が先行して顕彰事業を行っており、2017年に「吉村昭記念文学館」が開館しています。

「離れ」の書斎を展示の中心に据えた「三鷹市吉村昭書斎」は、全国的に見ても、珍しい文化施設ではないでしょうか。都内であれば、「漱石山房」の書斎を再現した「新宿区立漱石山房記念館」をはじめ、文学館や図書館など文化施設の一隅に書斎コーナーを設けて公開するのが一般的です。

開館から1ヵ月後の4月10日の午後遅い時間に「三鷹市吉村昭書斎」を訪れました。吉村・津村夫妻と生活圏が重なる我が家から徒歩で20分、井の頭線沿線にはまだ桜が残っていました(写真・上)。自治体の文化関連予算(写真・上は令和5年の三鷹市計上予算)は限られていますから、さして期待せずに訪れたのですが、工夫を凝らした施設全体の出来栄えに感心させられました。「交流棟」と「書斎棟」のふたつの建物は、周辺住環境に配慮して隣家との一体感を重視、施設であることを意識させないような造りになっています。向かって左手「交流棟」の外装には表面を焼いて炭化させた「本焼き板」が使われていて、レトロな味わいが「書斎棟」とよく調和しています。「交流棟」に入館すると、背丈より高い大きな曲面ガラスを通して「書斎棟」を眺められます。船底天井のような設えで天井を高くした結果、採光に優れた空間が産まれ、外観と内観のミスマッチが奏功しています。とかく陰気臭くなりがちな文学館ですが、来館者にはいい意味でサブライズだと思います。

「交流棟」の先にある扉を開けていったん外へ出て、時計回りに進み「書斎棟」に入場します。退場はその逆になります。書斎は、幕末の水戸藩尊王攘夷派が組織した「天狗党」による動乱を描いた『天狗争乱』執筆当時の様子を再現しているのだそうです。書架に収まった蔵書のタイトルを眺めているだけでも、徹底して史実を重視した吉村昭の執筆態度が透けて見えてきます。『北海道行刑史』、『日本史籍協会叢書』、『高知県史』などの郷土史がその一例です。幕末・維新期研究に必要不可欠な第一級の基礎史料である『日本史籍協会叢書』のなかの「川路聖謨(かわじとしあきら)」に目が留まりました。川路聖謨は、幕末、ロシア使節プチャーチンと交渉し、日露和親条約の締結に尽力した人格・識見共に優れた勘定奉行です。『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』執筆に際して参照した資料の一部でしょう。維新後、不平等条約の改正に奔走した小村寿太郎を描いた『ポーツマスの旗』と並ぶ二大外交官物として、記憶に残る作品です。

『わたしの取材余話』(河出書房・2010)のなかで、吉村昭は「史実を(忠実に)記して(作者が表面に出て自らの解釈を明確にせず)その判断を読者にゆだねる」立場に身を置いていると記しています。吉村文学、特にノンフィクション性の強い作品(歴史小説)の魅力は、そうした歴史に対する謙虚な姿勢にあるのだと思います。作者・吉村昭は、史実が明らかでない謂わば歴史の空白に対してのみ、珠玉の補助線を求めて合理的思考を重ねます。こうして、完成度の高い作品が生み出されるのです。

2024年四月大歌舞伎・夜の部|にざたま夢の競演による『於染久松色読販』&『神田祭』

2024年「四月大歌舞伎」夜の部は、にざたま夢の競演による『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』&『神田祭』でした。

市川宗家と並んで抜群の集客力を誇るのは、十五代片岡仁左衛門松嶋屋)と坂東玉三郎(大和屋)のふたりではないでしょうか。今回は、玉三郎を是非見たいという同級生のために一等席を手配して、「にざたま」コンビのお芝居と舞踊に同伴しました。先ずは、松竹が公開した特別ビジュアル(写真・下)をご覧下さい。

盗人・鬼門の喜兵衛(仁左衛門)と土手のお六(玉三郎)は、悪人夫婦。惚れた男のためなら悪事にも手を染める悪婆・お六が夫の手助けをして、瓦町油屋(質屋)に乗り込み、強請(ゆすり)を働くというのが『於染久松色読販』の筋書きです。通称《お染めの七役》、今回は名場面をダイジェストした「見取(みどり)」上演です。ふたりの示し合わせたような視線が実に様になっているではありませんか。幕切れ、思惑が見事にはずれ花道を籠を担いで引っ込む場面は、ふたりの仕草がかわいらしく滑稽味にあふれ、会場から万雷の拍手が送られました。次の清元の舞踊『神田祭』では、粋でいなせな鳶頭を仁左衛門、艶っぽい芸者を玉三郎が演じます。<火事と喧嘩は江戸の華>と言います。夜の部はそれを地で行く演目構成です。


(序幕第二場 小梅莨屋の場)


(第二幕 瓦町油屋の幕切れ)

400年以上にわたる歌舞伎の歴史を遡っても、「にざたま」のような不世出の役者コンビは見当たりません。歌舞伎ファンなら誰しも、同時代を共に生きる喜びを感じているはずです。昭和ならともかく、様々なエンタメ・コンテンツが存在する令和の今日において、歌舞伎が観客をひきつけ存在感を放っているのはこのふたりによるところが大きいと考えます。仁左衛門さんの気迫に満ちた舞台を観ていると、傘寿を迎えた役者さんであることをついつい忘れてしまいそうになります。

けれんたっぷりの大南北(おおなんぼく)のお芝居が大好きです。スター歌舞伎役者は生涯現役です。『東海道四谷怪談』と『桜姫東文章』の舞台をもう一度「にざたま」で観たいものです。

新緑の鎌倉ハイキング~起点と終点はJR北鎌倉駅がベスト~

5月下旬の屋久島トレッキングに向けて、友人2人を誘って、鎌倉へトレーニングを兼ねた日帰りハイキングに出掛けました。晴天に恵まれ心地いい風が吹く日曜日の4月14日は、絶好のハイキング日和になりました。

東京都内や神奈川県内に仲間が住んでいたとしても、日帰りハイキングの目的地選びはなかなか難しいものです。週末「ホリデー快速おくたま」が運行されるので、ソロなら迷わず奥多摩エリアへ向かいます。ところが、グループとなると奥多摩への交通アクセスは一択ですから、横浜や川崎住まいの友人には至って不便です。

その点、東京から鎌倉へはJR湘南新宿ラインやJR横須賀線が並走し(写真・上)所要時間は約1時間。首都圏全域に拡大しても交通アクセスは良好です。しかも、鎌倉では慢性的に交通渋滞が発生します。従って、鎌倉ヘ行くのなら公共交通機関を利用するにかぎります。

鎌倉には3つの代表的なハイキングコースがあります。今回は、そのうち2つのハイキングコースをランチを挟んで制覇する計画を立てました。9時に北鎌倉駅に集合して、午前中が葛原岡・大仏ハイキングコース(全長約3km/所要時間約1時間30分)、午後が天園(てんえん)ハイキングコース(全長約4km/所要時間約3時間)という計画です。

起点と終点をJR北鎌倉駅にしたのには理由があります。JR鎌倉駅には先のJR2路線に加え、観光電車・江ノ島電鉄が乗り入れているため、いつ訪れても混雑しています。一方、北鎌倉駅周辺には飲食店も少なく、喧騒から逃れることができます。目論見どおり、9時にJR北鎌倉駅へ到着すると人出は疎らで、古都鎌倉の静謐を存分に味わうことができました。ソロなら早朝スタートするところです。北鎌倉駅からすぐの浄智寺鎌倉五山第四位の古刹(写真・上)です。


(出典:山と渓谷オンライン)

葛原岡・大仏ハイキングコースの最高地点は天柱峰(97m)。先を進むと、葛原岡神社、頼朝像で有名な源氏山公園、宇賀福神社銭洗弁財天など、見どころたっぷりです。連れがほぼコースタイムで完歩してくれたお蔭で、江ノ電長谷駅からスケジュールどおり移動、JR鎌倉駅から徒歩数分の「秋本」の名物・生しらす丼にありつくことができました。頑張った友人ふたりへのご褒美は大好評でした。

食後、鎌倉駅前から路線バスに乗車し、10分ほどで終点の大塔宮へ着きました。大塔宮(だいとうみや)とは、鎌倉幕府の打倒に活躍した後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王のことです。社号は鎌倉宮かまくらぐう)ですが、地元では大塔宮で親しまれているようです。午後のコースの起点・瑞泉寺へ移動し、鎌倉市内最高地点・大平山(おおひらやま・157m)を経て、今泉住宅地経由で下山ました。北鎌倉駅の南東にカフェVERVE(ヴァーヴ)を見つけたので、ひと息ついて1日を振り返りました。水出し珈琲が美味しくて、長逗留させてもらいました。次回も利用したいカフェです。

ヤマスタの鎌倉六座完歩めざして、次回は残る六国見山/祇園山/衣張山をカバーします。

3度目の川瀬巴水展(2/2)〜雪景色に惹かれて〜

川瀬巴水(1883-1957)は、大正から昭和にかけて活躍した木版画家です。海外ではHASUIは、HOKUSAIやHIROSHIGEと並び称され、この偉大なる3人のアーティストのイニシャルから3Hと呼ばれています。

会場で展示作品の所蔵者である渡邉木版美術画舗の代表・渡邉章一郎さんの姿を見かけました。テレ東の人気番組「開運なんでも鑑定団」のファンである妻が気づいて教えてくれました。

新版画を提唱する版元の渡邉庄三郎(章一郎氏の祖父)と出会い、巴水は処女作「塩原三部作」を制作します。縦長画面の三ツ切り判は好評を博したといいます。この渋い作品に目をつけたスティーブ・ジョブズの審美眼には驚くほかありません。巴水は、「たびみやげ」「東京十二題」と次々と連作を手掛けます。

連作シリーズのなかでは、完成度において、「東京二十景」が群を抜いていると感じます。衆目の評価も一致するところではないでしょうか。《芝増上寺》(1925)は、巴水の作品中最も売れた作品です。赤の堂宇に雪化粧した大屋根、その鮮やかな色彩コントラストが印象的な傑作です。何より優れているのは緻密に計算された構図です。枝払いされた手前の松幹が左上方へと伸びて、画面上部から雪の重みで撓んだ松葉が垂れ下がっています。赤と白のコントラストに所謂松葉色が絶妙のアクセントになっています。傘を斜めに差して表情の窺えない女性は、《蒲原》を描いた歌川広重へのオマージュに見えます。

東京二十景」のうち5作品が雪景色です。御茶ノ水の雪景色を描いた《御茶の水》では、画面左上から対角線に雪が降り頻ります。《月嶌の雪》も横から激しく吹きつける雪を描いています。猛々しい自然とは対照的に、画面全体からは不思議な静寂(しじま)が伝わってきます。

《芝増上寺》と並ぶ人気作品《馬込の月》の柔らかい月あかりに浮かび上がる馬込の風景からは、谷崎潤一郎の名作『陰翳礼讃』に通じる日本人の美意識が看てとれます。三日月に浮かび上がる松橋のたもと風景を描いた《瀧之川》には、人家の障子から洩れる灯りが効果的に配されています。

奇しくも、遺作となった《平泉金色堂》も雪景色です。移ろいゆく自然と共存する日本の原風景を描いた川瀬巴水の作品は、何度見ても飽きることがありません。

3度目の川瀬巴水展(1/2)〜会場・八王子市夢美術館へ〜

川瀬巴水の展覧会を観るのは、2015年の「生誕130年 川瀬巴水展 - 郷愁の日本風景 - 」(会場:日本橋高島屋8階ホール)以来、3回目になります。前回はコロナ禍の最中、SOMPO美術館で開催された「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」展でした。

会場は八王子市夢美術館。中央線沿線に長く住みながら、八王子駅で下車するのは初めてです。八王子市の人口は559526人(2024/3/31現在)、都内市部ではダントツの1位なのです。駅周辺は想像以上の大都会で立川駅と似たような印象を受けました。

JR八王子駅北口を出て左手へ進むと、すぐにユーロード(西放射線道路)と呼ばれる広々とした歩行者専用道路に出ます。歴史を紐解いてみると、戦後の戦災復興事業において八王子駅甲州街道を結ぶ三本の放射道路が整備され、駅前の幹線道路網が形成されたとあります。全国的にも珍しいターミナル駅直結の歩行者・自転車専用(昭和59年以降)の幹線道路だそうです。正直、八王子駅前の往来の賑わいに驚愕しました。

優れた都市計画を有する街は必ず発展します。仏・第二帝政時の19世紀、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンが取り組んだフランス最大の都市整備事業がその典型です。特に駅前の再開発事業においては、都市の命運を決する一大事と言っていいでしょう。ユーロード整備の恩恵は絶大です。沿道には活気溢れる商店街が形成され、1日2万人もが訪れる市内随一の繁華街になっているのです。

総延長500mのユーロードを抜けると旧甲州街道国道20号線と合流します。さらに西へ進むと、シンガーソングライター・松任谷由美の実家・荒井呉服店がありました。竣工まもない立派なマンションの1階に紺地の暖簾がひときわ目立ちます。

めざす八王子市夢美術館はすぐその先でした。

黄砂襲来~愛車の高圧洗浄はマスト~

ここ数日、原因不明の水下痢(きつかった…)を患い自宅で静養している間に、愛車GLA35が写真(下)のような有り様に。4月17日から18日にかけて西日本から北日本まで広い範囲に黄砂が飛来したからです。都心の空は黄砂で霞んで見えたそうです。車体はポーラーホワイト(ソリッド)なので、余計に汚れが目立ちます。ルーフはまるで鳥の糞が付着したような塩梅です。青空駐車ゆえの悲しい宿命です。

黄砂は中国大陸奥地から飛んでくる細かな砂の粒子。運ばれてくるのはタクラマカン砂漠ゴビ砂漠の砂で、3月から5月にかけて偏西風に乗って日本にやってきます(写真下は黄砂飛来のメカニズム)。厄介なのはスギ花粉より粒子が小さいため、肺の奥まで入り込むことです。黄砂飛来時は外出を控えた方が良さそうです。


(出典:weathernews)

ガソリンスタンドや洗車場は何処も大混雑のようです。黄砂の飛来は収まったものの、GW前半までお天気が悪そうです。高圧洗浄したいのはやまやまですが、洗車直後に雨に降られては台無しです。天気予報と睨めっこで洗車のタイミングを見計らうつもりです。