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後醍醐天皇

(社会)
ごだいごてんのう

第96代目天皇(大覚寺統・南朝)。諱は尊治(たかはる)。
父は後宇多天皇。文保2年(西暦1318)後二条天皇の子・邦良親王が幼少だったため、その成人までの中継ぎとして弟の天皇が即位。当初は父法皇が院政を行っていた。
邦良親王成人後も譲位を拒み続け、両統迭立期限である10年を過ぎても譲位せず、ついに鎌倉幕府を倒して建武の新政を行う。しかし足利尊氏らの離反により最期は吉野へ追いやられてしまうのである。。。

後醍醐天皇の胸中

先に述べた通り後醍醐天皇は中継ぎとして扱われ、甥の邦良親王が成人すれば譲位しなければならなかった。後醍醐天皇の子に皇統が継がされることはなく、治天の君としての資格もないとされた。その上、鎌倉幕府の介入により両統迭立条件から持明院統への譲位を促された。
天皇は皇位継承の裁定に深く介入していた鎌倉幕府を憎んだ。しかし幕府のみを恨んでいたのではない。摂政、関白はもちろん院政をも否定し、天皇の専制政治を望んだのである。実際、邦良親王派など天皇の治世や皇統継承をよく思わない他の大覚寺統の貴族をも敵に回している。

倒幕運動

万里小路宣房、北畠親房らを用いて天皇親政を実現。
親政の妨げとなる鎌倉幕府倒幕のため、各地の武士や僧兵に参戦を呼びかけ笠置で幕府軍と衝突したが敗北し、元弘2年(1332)隠岐へ流刑となった(元弘の乱)。
ところが、吉野で護良親王が、河内千早城で楠木正成らが挙兵し、また悪党が各地で蜂起すると天皇は隠岐を脱出し、朝敵追討の宣旨を諸国に発した。
そのため、京都では足利尊氏が倒幕に動き、幕府勢力を一掃したのを始め新田義貞が上野で挙兵し鎌倉を攻略、鎌倉幕府は崩壊した。

建武の新政

元弘3年6月、京都に入った天皇は公家による統一政治を目指し記録所・恩賞方武者所・雑祖決断所など、中央機関を整備すると共に各地に国司と守護を派遣し、治安維持にあたらせた。
また、奥州を重要な地と見て北畠顕家を陸奥多賀城に派遣し、奥州将軍府を設立させた。
元弘4年、年号を「建武」と改めた天皇は、その権威を誇示すべく大内裏の造営を発表したが、戦乱の疲弊で苦しんでいた庶民や武士がその負担を受けることに反対し、天皇は徳政令を発したが効果が挙がらず、天皇に対する不満が高まっていった。建武2年6月には西園寺公宗らの謀叛計画が発覚し、同年7月には北条時行による反乱が勃発した(中先代の乱)。

足利尊氏の離反

天皇は足利尊氏に、討伐を命じたが、尊氏は北条時行を撃破した直後に反旗を翻し、各地で激戦を繰り広げた。
ところが段々天皇側に不利となり、ついに建武3年11月、光明天皇に神器を渡し自身は吉野で南朝を設立した。以後、北朝方と争うが、延元3年(1337)北畠顕家が敗死。同年閏7月には越前藤島で新田義貞が戦死するなど、南朝の勢力は次第に衰えていった。この体勢を挽回するため天皇は北畠顕信らを陸奥へ派遣しようとしたが、失敗。この後の計画も失敗し、同4年8月15日義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌16日、朝敵討伐・京都奪還を遺言して病没した。奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵に葬られた。

謚号について

過去、天皇の権威挽回を目指して延喜の治を行った醍醐天皇を尊敬し、自らの遺諡を後醍醐天皇と定めた。
冷泉天皇から後桃園天皇までの天皇は明治まで〜天皇*1という呼称が用いられていたが、後醍醐天皇に限っては院とは入れなかった。この時期に院天皇以外の呼称が用いられた他の天皇は安徳帝のみである。

*1:冷泉天皇など。

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