?〜建武2年(1335年)頃? 日本の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。父は北条貞時。 鎌倉幕府滅亡時には兄の北条高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びた。その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏。建武(1335年)6月に西園寺公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが事前に計画が露見して失敗した。
西園寺公宗(大河ドラマ「太平記」) わし高時は後醍醐天皇を隠岐に流したが、さすがに弑し奉るまではしなかった。その中途半端さが鎌倉幕府滅亡に繋がったのじゃが、それでも帝を手にかけるなど、さすがに恐れ多くてできるわけがない。じゃが、それをやろうとしたのが西園寺公宗とわが弟・北条泰家(時興)じゃ。けっきょくこの陰謀は失敗に終わるが、今回は2人が計画した後醍醐天皇暗殺未遂事件について紹介する。 すこぶる評判が悪かった建武の新政 西園寺公宗はなぜ、後醍醐天皇暗殺を企てたのか 後醍醐天皇暗殺計画の密議 弟の密告により暗殺失敗 後醍醐天皇暗殺未遂事件の余波
「こんなところがあるのか!」と、市街地から車で5分ほどの場所に。幸加木神社(こうかきじんじゃ)を参詣した。鎮座地は鹿児島市小野の山中。 御由緒 せせらぎの音を聞きながら 木村探元の墓 御由緒 『三国名勝図会』によると、かつては「高加木権現廟」と称した。「こうかき」は「高鍵」「高賀木」「高架木」とも書く。御祭神は伊弉冊命(イザナミノミコト)・速玉男神(ハヤタマノヲノカミ)・事解男神(コトサカノヲノカミ)の三坐。木村時勝がこの地に祭ったとされる。木村時勝は北条泰家(ほうじょうやすいえ)の三世孫であるという。 ちなみに北条泰家は14世紀の人で、得宗の北条高時(たかとき)の弟。正慶2年・元弘3年(13…
わし高時の弟・北条泰家についてじゃ。足利尊氏には直義、楠木正成には正季、新田義貞には脇屋義助というできる弟がいたように、わしにも泰家というキレ者の弟がいたんじゃよ。「逃げ上手の若君」では、何かと顔に出やすい、おでこに文字が出ている変なキャラになっておるけどな。 北条泰家(「逃げ上手の若君」)
ゴゴゴゴゴゴゴってアウトな気がwww 今週は道誉優勝の回! コナンの犯人ばりに顔に黒がかかってますw(頭巾取って坊主姿だとまさにそれ! ) 清原某は相変わらず腰振りながらビクンビクンしてますww「お元気」は意味深な気がします。 さて、魅摩の父である道誉殿は、朝廷の女官と男女の仲(随分ストレートだなw、胸元完全に事後だしww)となり朝廷の蔵で貴道情報入手! まさに婆娑羅!破戒僧!! それにしても結構なおっさんになってる年頃と思いますが、女官を落とす何かがあったのでしょうか、、、怪僧の例に漏れず立派なモノをお持ちとか、、、 一方で、道誉殿も娘魅摩に対してはスリスリし合う親バカのようですねw(お互い…
月曜はジャンプ、兎に角逃げ若です! 近江の手前で関所あり、足止め! 善良そうな武家の叔父さんが、ガラ悪そうな武士に捕まえられて、北条ぽいから連行と拷問という理不尽な仕打ちを受けます( ;∀;) 尚、古代からある関所は越前の愛発関(福井県敦賀市)・不破関(岐阜県関ケ原町)・鈴鹿関(三重県亀山市)で道的には古戦場として有名な関ヶ原付近だと思われます。 ただ、、、この図、、、✖が関所とすると鈴鹿関・・・そして馬を捨てる険しい山が不破関ルートとなりますね。。。。。 尚、関ケ原ルート‥‥現在でもトンネルも山越えもないか快適ルートです!7万の大軍も行軍できる‥‥これはどうしたことやら‥‥(触れてはいけない…
祝!1周年記念。 巻頭カラーです!!(実際は昨年8号なので1周年と1号なんですけどねw) そして8歳から10歳に成長した若君、なんと麗しい!この姿が全国の書店・コンビニを飾っているとは感慨ですね\(^o^)/ そして、扉絵もとても美しい!雪を御簾からみている若。。雅です!髪型が童の垂髪より少しラフなのも艶がありよいですな! さて、本編ですが、ここで1333年5月の回想シーンとついに、新田義貞公の登場です!褐色肌のワイルド系、ウホッ!いい男。。 ここは彼が主役と言うより、越後から伝令をして援軍を引き合わせた先週からの「天狗衆」の凄さを物語っているのは少し悲しいですが、、、、 尚、コマは小さいです…
逃げ若の感想もできる限り月曜のうちに書いていきたいと思います。 さて、頼継君と和解して新展開ですが、また怪しげな人物(おじさん)が、、、 なんと時行の叔父、数少ない身内の北条泰家!そして額に何か文字が、、、 勉強不足でこの方を知らなかったのですが、鎌倉幕府でも重鎮・中先代の乱でも重要人物でした。 時行の父・14代執権得宗家の高時の同母弟。つまり彼も得宗家の一人です。病弱な高時が執権を退いたとき、後継者候補となりましたが、内管領の長崎高資(賄賂マンとして悪名高い)の妨害で執権となれず。これを恥じた泰家は出家しましたが、それに多くの家臣たちが後を追って出家したと言われ、人望もあったことが窺われます…
正慶2年(1333年)5月15日、武蔵国多摩川畔の分倍河原で、鎌倉幕府軍と新田義貞軍が激突した。分倍河原の戦いじゃ。 北条泰家、新田義貞を破る 劣勢の新田義貞軍に三浦義勝が合力 阿保入道父子と横溝八郎の奮戦 北条泰家、新田義貞を破る 小手指原、久米川の戦いで桜田貞国の苦戦を聞いた鎌倉幕府は、わが弟の北条泰家を大将に10万の援軍を差し向けた。 援軍の到着に士気が上がった幕府は、勢いに乗って攻め込んできた新田軍を散々に打ち負かす。義貞はたまらず小手指原より北の堀金まで兵を退いており、まず幕府軍の大勝利といってよいじゃろう。ここでもし幕府軍が、さらなる追い打ちをかければ、新田義貞・脇屋義助、足利千寿…