歴史の石段で

 昨日の朝のことである。 
 本に埋もれかけた書斎の西の窓をひょいと見上げると、真っ青な空が見えた。唐突に「戦国の風を感じたい」そう思った。
城址めぐりでガス抜きもできるな」そうと決めたら行動は早い。独りでいくは淋しいので、友だちを誘って城巡りに車をすっ飛ばしたのだった。

 ところがいけない。最初は、ワシャの大好きな長篠城を目指すつもりだった。ところが、岡崎の市街地が花見の客でごった返している。このため市内一円が大渋滞で矢作川すら渡ることができない。渋滞に巻き込まれて40分も立つ。そこで「!」と閃いた。 人生なにごとも臨機応変。長篠に行くのに予想以上の時間がかかるなら、方向転換をして別の城跡に行けばいいだけのこと。ワシャの好きな城址は長篠だけではない。他に山ほどある。とくにワシャの住む三河城址の宝箱やー!
 設楽郡には、山家三方衆の一人宗家菅沼氏が守る田峯城がある。また長篠の敗戦で逃げる勝頼が途中で立ち寄った武節城、奥平の本城の亀山城、その亀山城を監視する武田の付け城の古宮城。
 八名郡に転じれば、武田信玄が発病した野田城、安祥城主の松平清康に攻められた宇利城。
 額田には奥平貞能が逃げ込んだ亀穴城、日近(ひぢか)合戦のあった日近城。
 なにしろ、ワシャが把握しているだけで三河には500以上の城址があるというからたまらない。

 話をもどす。当初は長篠を目指していた。それは長篠城址の桜が見ごろだからである。しかし、ワシャの家から行こうとすると、最低でも2時間はかかる。その上に岡崎の道路事情は最悪だ。渋滞に巻き込まれて4時間もかけて行ったのでは「ガス抜き」どころのはなしではない。すいすい走ってナンボのもんじゃ。そう判断し、目標を賀茂郡松平に決めた。
 岡崎を避けて、山道に入ればドライブは快適である。車窓を過ぎていく三河の山々はところどころに山桜を配したりして、春の兆しを見せている。空は抜けるような青さで、雲一つない晴天だ。山道といっても国道だから整備が行き届いている。二車線道路はカーブも緩やかで、滑らかに加速しながら加茂山系を縫っていく心地よさはいかばかりであろうか。
 
 司馬遼太郎は『濃尾参州記』の取材で松平郷高月院に足を運んでいる。国道301号から脇道に入って600mほどゆくと、松平東照宮という神社がある。往時、ここに松平家の屋敷があったものらしい。そこに下り立って司馬さんは東の山を眺めたに違いない。少し引く。
《その(松平屋敷の)一段上が、尾根で、いわば山巓(さんてん)である。そこに浄土宗高月院があり、高い松の木が一幹(ひともと)あって、幹に枝がなく、はるかな青空を掃くように梢だけに枝葉が茂っていた。》
《山巓の地面は明治の軍艦の艦橋のように狭く、まわりは谷で、谷のほかなにもなかった。そのせいか高月院そのものに人格を感じた。孤独な山僧に出会ったようだった。》
 
 松平の郷は穴場だった。国道301号沿いの駐車場にはほとんど車が停まっていない。貸切状態だった。司馬さんの愛でた高月院もいい。しかし、城跡好きとしては、まずは松平城である。
 豊田から作手を通って新城へ抜ける国道301号沿いにある。かつては西加茂、東加茂、作手、八名をむすぶ新城街道と呼ばれていた。その街道を見下ろす格好で、松平城は立地している。街道の物資の往来や、人の行き来を監視していたのだろう。
 この人のブログに松平城の縄張り図が示されている。
http://www.oshiromeguri.com/toyota/21matudaira.html
(一番下までスクロールするとあります)
 これを見ると、左中ほどから斜めに下へはしる道が新城街道がわかり、街道に並んで曲輪(郭)が配置されているのがわかる。主郭は「Ⅰ」と書いてあるところで、ここがこの辺りでもっとも標高が高い。主郭は急勾配の斜面で囲まれており、主郭周辺の防御は硬い。ただ、西側の傾斜が比較的なだらかになっている。といっても、ワシャは登るのに息が切れたが、それは運動不足によるものだろう。
 それでも、松平一族はこの比較的脆弱な西面を強化している。攻めやすい(竹の入)と書かれた平坦地を囲むように曲輪を配置している。また、この縄張り図では判りにくいが、「Ⅱ」の曲輪の北側に3段の防御線が張ってあり、主郭防衛を強化しているのが特徴的である。(つづく)