にっかん考現学No.66 通信使の16

朝鮮通信使の現場を訪ねる実地踏査レポート・シリーズ=蒲刈・編の第4稿である。
このシリーズの第1稿は4月4日に始めたから、もう6ヵ月目に入った。
三之瀬・瀬戸に面して建つ朝鮮通信使資料館=御馳走一番館の展示内容について、印象をざっと述べる。
資料館であるから朝鮮通信使のことを全般的に公知させるべしとの配慮に立って、レプリカをふんだんに配置してある。
特に力点を入れたであろうと想われる点を3つ述べることとする。
まず、公式行事たる外交使節団3高官に対して饗応料理として提供されたであろう七五三膳・三汁十五菜などの実物大模型の展示である。
資料館の名=一番館に因んで、料理展示に格別の力点を入れたのであろうか?
ところが、馳走すなわち料理と考えるのは極めて現代的な誤解と言えよう。
この頃朝鮮通信使の受入=国際外交権は、幕府が一手に握っており。公式行事の一切は、徳川幕府つまり江戸城内と・そのお膝元である江戸の街中で実施された。
朝鮮通信使総勢約400〜500人から成る外交使節団一行が、江戸まで往復する過程で生ずる派生的・随伴的な行事のことを「馳走」と称して。徳川幕府は、その業務を各藩に分割負担させた。
具体的な「馳走」業務の内容は、海上での輸送から警備までと宿館における衣・食・住などの接待業務とに分けられるが。各藩は、海域と宿館をセットにした守備範囲を幕府から割ふられた。
各藩の立場からすれば純粋なお手伝いの押つけ。費用負担・気苦労等を考えれば、かなり厄介なお荷物なのだが・・・・そこに積極的意義を見つけ出し、他の藩を仮想敵に仕立てて競い、ことさらサービス競争に自ら追い込む。
いかにも日本的なのか?田舎役人の考えなのか?理解困難だが。”馳走一番”を誇る発想の根底には、蒲刈の宿館を担わされた広島・浅野藩に残る記録古書の存在がある。
他藩とのサービス較差を懸念して、対馬藩の役人に内々問い合わせをして、最上であるとの評価を聞き出した旨の藩記録が残るらしい。
対馬藩の役回りは、言わずもがなだが。韓半島に最も近い孤島の位置にあると言う地政学的環境もあって、釜山市内に常設の交渉連絡施設を運営するなど、幕府から委任されて対李氏朝鮮国との外交折衝を担っていた。そして朝鮮通信使来日の際は釜山から釜山まで往復の全行程に随行。日本側との折衝窓口・連絡役をこなした。
ところで、行程中”料理一番”の高い評価の信頼度は、実際どうだったろうか?
いささか気になるところだが、結論を急げば概ね妥当であったと想われる。その理由は極めて簡単である。当時も今も、広島は銘酒産地である。酒が美味い。それに勝るものはそう無い。
朝鮮通信使の経路地に、蒲刈<広島>・神戸(灘)・伏見(京都)と名だたる「酒どころ」がある。
他の2地は宿館指定地ではなかったから、蒲刈の独擅場と言うべきだろう。
次に気がついた展示物は、拡大版カラー・パネルによる複製・風景画である。
朝鮮通信使の一行が、眺めて気に留めた当時の日本各地の風景画=コピー・レプリカだ。
原本所蔵は韓国・国立中央博物館、件名は槎路勝区図と言う。全30枚が2巻の冊子仕立で残るそうだが、専門家の見立てによれば、延享5(1748)年<江戸期第10次通信使>の画員=李聖麟。号は曽斎が作者に否定されている。
画題は、海上から眺めた島や港、富士の山・箱根の湖・公式会見の光景などと多様。遠望風景などは、所謂山水画の作法に則っているのであろうが。写実性の要素は乏しく、現在時点で現地に立って描画ポイントがどこであったかを見極めるフォロウ作業に手を染めてみようかと一瞬想ったが。徒労に終わりそうな気がした。形式過重・事大思潮の儒教主義に足を置く描法であれば、実写に重きを置く発想はと母子のであろうか?
最後に採上げる展示物は、2階の最奥に置かれてある人形の集合展示である。日本各地から集めた朝鮮風俗の人形は、陶土・布・紙などさまざまな素材で作成され、色とりどり・形それぞれと。その豊富さ・多様さに感心させられる。その当時から最近まで、比較的長い期間に亘って各地の日本人から愛され続けたであろうことが伺われる。
朝鮮通信使が陸上行列した経由街道縁辺地域もそうでない地域の別なく、当時鎖国状態で推移していた日本列島各地の異国風俗願望は、相当に根強く。各地への情報波及も想像以上に迅速かつ広域であったようだ。
以上が3つに絞り込んだ朝鮮通信使資料館=御馳走一番館の展示についての印象レポートだが、通信使全般に関する情報提供が、漏れなくかつバランスよく行われつつ、なるべく現物レプリカをもって即物的に見せようとする姿勢が伺われた。
列島における異国特に隣国に体する関心のありようや好悪の感情は、時々であり。所謂人気としての浮き沈みはあるが、このような大地に足を置いて・総合的な展示を継続する姿勢を高く評価したいものである。
地方・地域の閉鎖性を打破しつつ、地域固有の文化的・歴史性に立脚しつつ、地域興しに結びつけようとする地道な努力に賛同を覚えた。隣人や隣国に対しては、いつも胸襟を開いて。相互尊重・平等互恵の精神をもって、臨みたいものである。
今日はこれまでとします