大和王朝と関東縄文人

渡来人が奈良に王朝作るまで

紀元前5世紀ごろから徐々に九州地方に上陸し始めた弥生人は土着の縄文人を吸収しながら東へと勢力を伸ばしました。2世紀頃には、その勢力は関東まで及んだようです。勢力拡大にあたって土着の豪族との小競り合いはあったでしょうが、おおむね平和的な広まりを見せたようです。狩猟採集を中心に生活する縄文人は身分の上下関係がなく、命令系統も組織だっていないので、戦争という解決方法を採用しなかったのでしょう。それよりも弥生人の持つ稲作の技術に興味があったようです。農作をしない縄文人は食料の供給を完全に自然界に依存していました。何しろ自然が相手ですから、その年の天候次第で供給される食料が大きく変化します。不運が重なる年には餓死の恐れもあります。一方、弥生人が持ち込んだ米は、農業の手間が必要なものの収穫量は比較的安定しており、長年の問題を解決できる夢のソリューションだったのです。しかし、その稲作も関東ではなかなか普及が進みませんでした。関東の土壌は火山灰が降り積もった関東ローム層なので、稲作には向いていなかったのです。関東以北も気候が米の栽培に一致しておらず、しばしの品種改良を待たなければなりませんでした。

その間、西日本は土地の良し悪しからくる農作物の出来具合の差によって身分や貧富が生じ、そこから激しい争いが生まれました。最終的には奈良盆地に急速に権力が集まり、大和王権が成立しました。そして、大和朝廷は中国から律令制を輸入してさらなる勢力の拡大を図ったのです。一方、関東はといいますと、縄文末期の細々とした牧歌的な生活をしておりまして、気づいた頃には西日本に強大な国家が出来上がっていたという始末でした。

律令制度のカラク

大和朝廷と契約を結んで戸籍登録した人は国民として扱われ、朝廷から田んぼを貸し与えてもらえます(契約しない者は人ではありません)。田んぼさえあれば農作業で比較的少ないリスクで生活できるので、恩返しとして朝廷から義務付けられた労働をこなしましょうという話です。

なぜ戸籍を作成するかといえば、国民が逃亡しないように管理するためです。ただし、戸籍には虚偽の記載がつきものですので、顔と名前を付合わせて確認しなければなりません。そのために、稲刈りが始まれば初穂(田んぼで最初についた稲の穂先だけを束にしたもの)を直接中央まで運ばせます。これで戸籍を確認しつつ、穂の出来具合を見て、田んぼの地質や農民の働き具合を調べます。また、穂先だけ持ってくるのではほとんど手ぶらなので、各地の特産品を背負わせてきます。そして絢爛豪華な都を見学させて朝廷の偉大さを国民に教えこむ(地方から上京した人たちが見た法隆寺東大寺の大仏などはどれだけ圧巻だっただろうか)のです 。

さすが、大陸で洗練されてきた格調高い合理的な制度なのですが、それをそのまま日本に適用してもうまく回りません。そこはある程度ローカライズが必要だったことでしょう。そこで庶民向けには建前を用意します。納税の建前は「天皇による祈祷」に対する支払いです。

天皇は神の末裔なので、神と会話する能力を体得しています。ですから、収穫された稲穂を預けておけば、神の力を宿した元気な種子になるように祈祷してくれた上、冬の間に損なうことがないよう丁重に保管してくれて、適切な時期が来れば苗が返ってくる、といった形です。これは合理的に考えれば、稲作の知識が未熟な地方の人たちでも確実に収穫を迎えられるような段取りをつけてくれているということですが、嫌な勘ぐり方をしてしまえば、種の選別や品種改良などの稲作の肝心なノウハウを習得させないように祈祷という形で隠蔽していたともとれます。

東国を襲う律令制

ここからが本題の東国の話になります。西からの強烈な圧迫を受けて「稲作は土地に合わないから今まで通りやらせてください」などとは言えるわけがなく、東国の住民たちも大和に取り込まれていきます。しかし、「祈祷の供物を捧げるために都まで出頭せよ」といった言い分は、天皇の神秘性を信じる地域の人たちには有効であっても、宗教観が違う関東人にとっては「そんなん知らんがな」となるのは当然です。縄文文化を色濃く残した東国の人たちが、朝廷が押しつけてくる納税の理屈に対して反発するのは当然でしょう。
今も昔も庶民の納税感情は変わりません。支払うだけの見返りがあればさしたる抵抗もなく納税されますが、理由のない徴税は抵抗したり、脱税したりします。

そもそも律令制度においては、税とは納めるものであって、支払うものではありません。納めるというのは、自らの意思で納めに行くという意味なので、交通費は納税側の自腹なのです。これが東国にはたまりません。武蔵の国(現在の東京付近)から都までの旅程はなんと片道で29日かかったとのことです。なぜこんなにかかるのか。外海の太平洋を横断するには大型船が必要ですし、東海道を通るにしても、いくつかの大河を越えねばならないのです。そこで、確実な東山道(いちど群馬まで出て、長野、岐阜を通る道)を荷物を背負って徒歩で進んだからです。想像しただけでもかなり険しいルートですね。こんなものを交通費自腹でやらされてはかないません。ちなみに制度的には西日本も同じなのですが、環境面で条件がだいぶ変わります。西日本は瀬戸内海と淀川(む、この時代は平城京だから紀ノ川か)を船で進めば比較的容易に都まで行けます。また、都から北九州のルートは国防の上でも重要なので街道はかなり整備されていました。さらに、大陸からの侵攻を防ぐと言う見返りが期待できるので、利害の上でも落としどころを付けやすかったのでした。

この頃の大和王朝は結構無茶です。わざわざ東国の人を防人にしたり、朝鮮から逃れてきた渡来人を関東に住む合わせたりしたようです。これによって日本という単位で一体感を醸成するのが狙いだったのでしょうが、東国の人たちには不満が残るやり方だったようです。負担なだけなので、住民感情としては朝廷に対して強い反抗心を抱いておりました。そこでボイコットを起こすと懲罰軍がやってくる。そういう流れが平将門の乱鎌倉幕府の成立につながっていくのでした。