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コラム・イナモト このページをアンテナに追加

 

2017-04-23 夢のアナキズム このエントリーを含むブックマーク

 先週に続いてアナキズムの話。

 アナキズムの理想とする世界について歌った有名な曲がある。ジョン・レノンの「イマジン」だ。

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too
Imagine all the people
Living life in peace


(……)


Imagine no possessions
I wonder if you can

No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world


想像してごらん、国家なんてないと
そんなにむずかしくはないさ
何かのために殺したり死んだりすることもない
宗教もない
想像してごらん、すべての人が
平和に暮らしている


(……)


想像してごらん、所有なんてないと
想像できるかな
貪欲やハングリーになる必要もない
人類の兄弟愛
想像してごらん、すべての人が
すべての世界を分け合っている

 戦争やテロなど、強烈な暴力行為が起きるとよく「イマジン」が歌われる。そういうシーンを目にしたり耳にしたりするたびに、おれは皮肉な気持ちになる。皮肉なシーンだと思う。「イマジン」を平和についての歌となんとなく思っているのではなかろうか。国家がなく、所有もなく、兄弟愛のもとで分かち合って暮らす世界。「イマジン」は本当はアナキズムの理想を謳った歌なのである。

 アナキズムの理想は、心身の健康な人がもっぱら想像するものだとおれは思う。少なくとも現代社会で、ひどい苦痛を体験した人はおそらくアナキズムに賛成できないのではないか。

 理由はおれが思いつくだけでも4つある。

 まず、大都市は確実に崩壊する。理由は割に単純で、権力機構がなければ下水を維持できず、伝染病が蔓延するからだ。そして、人が苦しむ。

 2つめに医療の不足による苦痛あるいは死。

 現在の経済は法律の強制力の下で動いている。政府がなくなれば法律が機能せず、経済は劇的に縮小するにちがいない。その結果、高度な医療システムは維持できず、医療で苦痛を癒している人には苦痛が舞い戻る。最大の問題は、乳幼児の死亡率が劇的に上がることだろう。乳幼児本人の苦痛や死の残酷さはもちろん、その親の嘆き、苦しみもどれほど深く、長いだろうか。

 人類は長い歴史をそうやって生きてきたのだ、などという意見は非常にのん気で無責任だと感じる。少なくともおれは、乳幼児はなるべく死なないほうがよいと思う。

 3つめとして、怯え。アナキズムの理想とする社会はもっぱら人間の善意や優しさに頼っているけれども、人間には身勝手さも狡猾さもスケベ根性もある。そうした「悪」を抑えるには宗教による強力な脅しか、コミュニティによる制裁(村八分の恐怖のような)が必要になるだろう。怯えが根底にある社会は、アナキストが考えるほどいいものだろうか(もっとも、今の社会も別の種類の怯えが根底にあるけれども)。

 最後に、飢え。アナキズム的なコミュニティがつくり出せる食物は限られる(科学技術の支援も、インフラの恩恵もなくなるから)。遠くに運ぶこともできず、飢餓が広がるにちがいない。

 ただ、幸か不幸か、アナキズムはおそらく実現できない。アナキズムを理想とする人がいても、国家体制を覆すのはまず無理だろうからだ。権力嫌いのアナキストは軍隊的な権力機構も嫌うから、秩序だった軍事行動を取れない。ゲリラやテロ行為は可能だが、ベトナム戦争のテト攻勢のような大規模な軍事行動は不可能だろう。結果、彼らは市民社会にとって迷惑な、散発的な暴力行為に終始することになる。

 もしアナキズムにチャンスがあるなら、世界レベルでの核戦争か、地球レベルの大災害の後くらいか。いずれにしろ、巨大な苦痛と大量の死が伴う。

 人の夢と書いて「儚い(はかない)」。アナキズムの夢は儚い。

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

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2017-04-16 アナキズムは優しく、美しい このエントリーを含むブックマーク

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

アナキズム入門 (ちくま新書1245)

 森元斎の「アナキズム入門」を読んだ。5人のアナキストプルードンバクーニンクロポトキン、ルクリュ、マフノの生涯を追いながら、アナキズムとは何ぞや、を説き明かす内容である。ネット的な文体も織り交ぜつつ時に講談的に血湧き肉躍り、よい読書体験だった。

 各章の題名を書く。

革命−プルードンの知恵

蜂起−バクーニンの闘争

理論−聖人クロポトキン

地球−歩く人ルクリュ

戦争−暴れん坊マノフ

 いかにも面白そうではないだろうか。

 おれはこれまでアナキストの著作を読んだことがない。その思想の一端にでもふれるのはこの本が初めてだ。

 高校の世界史の教科書か参考書で(三十年以上前だ)プルードン、バクーニン、クロポトキンの名前を見た覚えはある。ほとんど思想内容にはふれてなかったように思う。考えてみればそれはそうで、国家権力である文部省(今は文科省)が、国家権力を否定するアナキズムを学習指導要領に盛り込むわけがない。

 知りもしないくせに、おれは「プルードン」「バクーニン」「クロポトキン」という名前を見て、暴力的でオソロしげな印象を抱く。我ながら興味深い現象だ。ひとつには、おれがガキの時分にセックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」という破壊力バツグンの曲が流行ったせいもあるかもしれない。しかしそのせいばかりでなく、いろんなものを見聞き読むうち、おれには知らず知らずに「アナーキスト=暴力」というイメージが刷り込まれてしまったらしい。この偏見(世の空気みたいなもの?)の刷り込みのほうがオソロしい。

「アナキズム入門」を読むと、アナキストの目指す世界はむしろ牧歌的なもののようだ。強圧的な国家権力がなく、人それぞれが相応に働き、小さめの共同体の中で話し合いで調整する世界。もちろん、そういう世界をつくるためには国家権力を倒さなければならないから、アナキストは時に蜂起もすれば殺人だってするわけだが、理想自体はむしろ心優しいイメージである。

 アナキズムの理想は美しい。しかし、残念ながら、アナキズムを実現できるかどうか、仮に実現できたとしても人が幸福になれるかというと、難しいのではないかとおれは思う。それについては来週にでも書こうと思う。

yagianyagian 2017/04/17 10:31 まさしく。大杉栄の本も、まさに優しく美しいですよ。でも、残念ながら、実現しない。ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」は、アナキストがファシストとコミュニストに敗れる姿を描いていて、ああ、現実はそうなんだなぁって思う。

yinamotoyinamoto 2017/04/17 23:32 大杉栄、読んでみますわ。

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2017-04-09 水滸伝の明るさ、日本の物語の湿り気 このエントリーを含むブックマーク

 先週に続いて水滸伝の話。

 おれが水滸伝を好きなのは、その明るさ、楽天性のゆえもある。

 もちろん、水滸伝は長い、長い物語だから、中には暗い話や陰惨な話もある。主人公達(林冲宋江、武松……)が人に陥れられたり、裏切られたりもする。しかし、基調はカラリと明るい。

 翻って見るに、日本の物語は江戸時代も後半に入るまで、色調が渋いというか、湿り気を帯びた話がほとんどのように思う。源氏物語平家物語、菅原伝授手習鑑、仮名手本忠臣蔵南総里見八犬伝、どれも湿っている。南総里見八犬伝は曲亭馬琴が水滸伝を換骨奪胎した物語だが、忠義だ、孝行だとがんじがらめなうえに説教くさく、水滸伝の明るい乾いた楽しさはすっかり消し去られてしまった。

 水滸伝の明るさは自由の明るさだと思う。高島俊男先生によると(水滸伝についてのおれの知識は高島先生の「水滸伝の世界」「水滸伝と日本人」からのみ)、水滸伝の「思いのまま」「無拘束」な自由さを快活(コワイホ)と言うのだそうだ。水滸伝で梁山泊に集まってくる主人公達は、さまざまな事情によって平常の生活から離れざるを得なくなる。あるいは、最初から勝手気ままに(コワイホに)生きている。その、男伊達と仲間同士の紐帯以外の何物にも縛られない天地自在の境地によって、水滸伝の明るい色調は生まれているように思う。

 一方、日本の物語は、たいてい世の仕組みやしがらみの中で主人公が苦しむ。彼らは世の中の制度や縛りの中でしばしば悲劇に見舞われ、その範囲内で答えを出すのであって、制度や縛りの外に出てしまうことはない。自由のなさが物語の基点になっている。

 もっとも、江戸時代も幕末に近づくにつれ、歌舞伎の白浪物(盗賊を主人公にした演目)に代表されるような、悪の自由さをあっけらかんと描く物語も出てくる。人々が本能的に「封建社会って何だか怪しい」と感じ始めたせいかもしれないし、もっとダイレクトに水滸伝の影響だったのかもしれない。

 ……と、ここまで水滸伝は明るい、明るいと書いてきたが、その最後は哀しい。梁山泊の頭首宋江は朝廷に帰順して大戦果をあげ、栄達するが、陰謀によって朝廷から送られた毒酒をあおり、乱暴李逵を道連れにして死ぬ。李逵も、兄貴と一緒になら、と従容として死を受け入れる。宋江の死を知った梁山泊の軍師呉用は宋江と李逵の墓を訪ね、弓の名手花栄とともに、樹に首をかけて死ぬ。

 水滸伝の最後の十回は哀切で美しい。自由な境地にいた主人公達がしがらみの中へと戻り、それぞれの形で死んでゆく。勝手気ままな楽しさ、明るさが基調だっただけに、強いコントラストをなす。カラリと哀しい。

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

水滸伝と日本人 (ちくま文庫)

水滸伝と日本人 (ちくま文庫)

水滸伝〈8〉 (ちくま文庫)

水滸伝〈8〉 (ちくま文庫)

愛読者愛読者 2017/04/13 13:07 今回のテーマからちょっと外れるのですが…。1970年代頃までの映画やテレビドラマなどは、今見ると意外にドライというかさっぱりしている感じがします。それが80年代後半くらいから、やたらとジメジメしてクサくなっていきます。どんな理由なのでしょうかね。

yinamotoyinamoto 2017/04/13 23:46 何でしょうねえ?

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2017-04-02 松枝茂夫編訳版・水滸伝 このエントリーを含むブックマーク

 松枝茂夫編訳の「岩波少年文庫 水滸伝」を読んだ。

 読み進めるうちに、「ああ、子どもの頃に読んだ水滸伝はこれだったのだな」と気がついた。小学生だったか、中学生だったか、市の図書館で借りて、とても面白く、夢中になって読んだことを思い出した。

 おれが大人になってから水滸伝を読んだのは四十代に入ってからで、岩波文庫吉川幸次郎・清水茂訳版だった。その後、何年か経ってからちくま文庫の駒田信二訳版を読んだ。吉川英治の「新・水滸伝」も読んだが、これは中国の水滸伝から筋を借りた別物と考えたほうがよさそうだ。

 松枝版、吉川・清水版、駒田版の中で、おれは松枝訳版が一番好きだ。

 松枝版は、はしがきによると「五分の一くらいにちぢめたもの」だそうだ。その後にこうある。

しかしそのために「水滸伝」の面白さが五分の一にちぢまってしまっては困ります。およそ小説の筋書ほどつまらぬものはありません。わたしはこの本がただの筋書に終らぬようにと、一生けんめいにつとめたつもりです。それでふつうの読者にはあまり興味がないと思われるところは思いきって圧縮しましたが、そのかわりに、だいじなところはなるべく原書のとおりに訳しました。同時に原書にない言葉は、やむを得ない場合をのぞいては、一字も加えまいと心がけました。

 松枝版がいいのは水滸伝の面白いところだけを上手に拾って訳していることである。何しろ、水滸伝は長い。百二十回本という一番長いバージョンの完訳・駒田版は全部で3,500ページほどになる。それが松枝版は新書サイズで900ページあまりだ。

 おそらく読んだことのあるほとんどの人が同意すると思うが、水滸伝が特に面白いのは、全体の三分の一くらいまでである。後半に入ると、戦の話が多くなる分、一人ひとりの個性が表れず、話が平板になっていく。

 松枝版はつまらないところを筋書きにとどめている。極端なのは、宋江率いる梁山泊軍が朝廷に帰順してから後の話だ。宋江が遼、田虎、王慶、方臘を征伐するのは百二十回本では全体の三分の一(四十回分)を占めるが、松枝版はこれをたったの一回分、21ページにまとめている(要するに、最後の三分の一はほとんどつまらないところしかないのだ)。その分、面白い部分にたっぷりとページを与えてある。

 松枝版のもうひとつのいいところは、文章がよくこなれていて、活気のあるところだ。

 吉川・清水版は思い切った講釈調を取り入れていて、最初はそれが新鮮に感じられるが、だんだん飽きてくる。もうひとつの駒田版(この先生も中国文学の大権威)はいかにも翻訳文というふうで、文章がかたく、登場人物が生きていない感じがする。

 その点、松枝版はとてもいい。地の文は地の文らしく普通に、会話は会話らしく生きたふうに書いている。一文、一文、読み物として丁寧に書き下ろしていることがわかる。おれはもともと、水滸伝の重要人物の一人である李逵(りき)を、そのあまりに強烈な殺人嗜好のゆえに好きになれなかったのだが、松枝版を読んで、李逵の愛嬌がいくらか理解できるようになった。

 水滸伝は面白い。そして、その面白さを日本語で味わうには松枝版が一番よいように思う。

水滸伝 上 (岩波少年文庫 541)

水滸伝 上 (岩波少年文庫 541)

水滸伝 中 (岩波少年文庫 542)

水滸伝 中 (岩波少年文庫 542)

水滸伝 下 新版 (岩波少年文庫 543)

水滸伝 下 新版 (岩波少年文庫 543)

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2017-03-26 らくだ このエントリーを含むブックマーク

 落語が好きで、よく聴く。あまり嫌いな噺(ネタ)はないのだが、例外のひとつが「らくだ」である。嫌いというより、苦手というほうが近いかもしれない。

「らくだ」はいろいろな落語家がやっている。大まかなストーリーはこうだ。「らくだ」と呼ばれる長屋の嫌われ者のところに兄弟分が訪ねてくる。名前は落語家によって「丁の目の半次」だったり、「ヤタゲタの熊」だったり、いろいろである。ところが、らくだは手料理したフグに当たって死んでいる。簡単な葬式をあげてやろうと思うが、金がない。たまたま通りかかった屑屋を脅かしてあちこち使いに行かせ、長屋から香典を集めたり、大家から酒と煮しめをせしめたり、漬物屋から棺桶代わりに漬物樽をもらったりする。この屑屋の使いのくだりが笑わせどころである。で、一通りもらうものをもらった後、兄弟分がご苦労さんと屑屋に酒を呑ませる。小心者の屑屋は呑むうちに人間が変わって、兄弟分にでかく出る。その後は、あまりやらないことが多いようだが、らくだの死骸を漬物樽に突っ込んで焼き場に向かい、ひと騒動あって、オチとなる。

 おれが「らくだ」を苦手と思うのは、どうやら屑屋が自分に似ているせいらしい。小心者のくせに、酒が入ると気がでかくなる。自分中心になる。そうして、(噺の中に描写はないけれども)酔いが覚めるとおそらくまた小心者に戻って、呑んでいた時の記憶に苦しむ。おれには屑屋の心の動きがよくわかるのだが、共感というポジティブな感覚ではなく、身につまされるという感でもなく、いっそツバを吐き捨てたいイヤな感情である。

 この点、特に立川談志の「らくだ」が強烈だ。談志の屑屋はやけにイジイジしているが、酒が入ると強ぶり、大言し、悲憤慷慨する。ほとんど狂乱状態になる。だから、談志の「らくだ」がおれは一番苦手だ。

 談志に限らず、他の落語家のCDを買ってたまたま「らくだ」が入っていると、イヤだなー、と思う。でも、もったいないから一応、聞く。そして、聴き終わってから、やっぱりイヤだったなー、と思う。

 ところが、それらの録音の中で、観客はゲラゲラ笑っているのである。おれは屑屋の中に自分の姿を見て、イヤだなー、と思うから、あっけらかんと笑う観客をちょっと不思議にすら感じる。人間のやることは、近づいて見れば悲劇だが、遠くから眺めれば喜劇になると言う。屑屋の行動を、おれは自分に似ているから悲劇に感じ、笑える観客は喜劇に感じているのだろう。羨ましい。

 先日、笑福亭松鶴(仁鶴や鶴瓶の師匠)の「らくだ」をCDで聴いた。松鶴の十八番ということは知っていたが、これまで松鶴の落語自体、あまり聴いたことがなかった。そうして、これがやはりいいのである。屑屋もらくだの兄貴分もあっけらかんとしていて、その分、すっと聴ける。飲み口のいい酒みたいだ。わあわあやりあって、うだうだごねて、「こんなやつら、いるなー」と感じる。上方落語で言う「我々、同様」というやつだろうか。これでいいのだ。

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