Hatena::ブログ(Diary)

コラム・イナモト このページをアンテナに追加

 

2017-03-26 らくだ このエントリーを含むブックマーク

 落語が好きで、よく聴く。あまり嫌いな噺(ネタ)はないのだが、例外のひとつが「らくだ」である。嫌いというより、苦手というほうが近いかもしれない。

「らくだ」はいろいろな落語家がやっている。大まかなストーリーはこうだ。「らくだ」と呼ばれる長屋の嫌われ者のところに兄弟分が訪ねてくる。名前は落語家によって「丁の目の半次」だったり、「ヤタゲタの熊」だったり、いろいろである。ところが、らくだは手料理したフグに当たって死んでいる。簡単な葬式をあげてやろうと思うが、金がない。たまたま通りかかった屑屋を脅かしてあちこち使いに行かせ、長屋から香典を集めたり、大家から酒と煮しめをせしめたり、漬物屋から棺桶代わりに漬物樽をもらったりする。この屑屋の使いのくだりが笑わせどころである。で、一通りもらうものをもらった後、兄弟分がご苦労さんと屑屋に酒を呑ませる。小心者の屑屋は呑むうちに人間が変わって、兄弟分にでかく出る。その後は、あまりやらないことが多いようだが、らくだの死骸を漬物樽に突っ込んで焼き場に向かい、ひと騒動あって、オチとなる。

 おれが「らくだ」を苦手と思うのは、どうやら屑屋が自分に似ているせいらしい。小心者のくせに、酒が入ると気がでかくなる。自分中心になる。そうして、(噺の中に描写はないけれども)酔いが覚めるとおそらくまた小心者に戻って、呑んでいた時の記憶に苦しむ。おれには屑屋の心の動きがよくわかるのだが、共感というポジティブな感覚ではなく、身につまされるという感でもなく、いっそツバを吐き捨てたいイヤな感情である。

 この点、特に立川談志の「らくだ」が強烈だ。談志の屑屋はやけにイジイジしているが、酒が入ると強ぶり、大言し、悲憤慷慨する。ほとんど狂乱状態になる。だから、談志の「らくだ」がおれは一番苦手だ。

 談志に限らず、他の落語家のCDを買ってたまたま「らくだ」が入っていると、イヤだなー、と思う。でも、もったいないから一応、聞く。そして、聴き終わってから、やっぱりイヤだったなー、と思う。

 ところが、それらの録音の中で、観客はゲラゲラ笑っているのである。おれは屑屋の中に自分の姿を見て、イヤだなー、と思うから、あっけらかんと笑う観客をちょっと不思議にすら感じる。人間のやることは、近づいて見れば悲劇だが、遠くから眺めれば喜劇になると言う。屑屋の行動を、おれは自分に似ているから悲劇に感じ、笑える観客は喜劇に感じているのだろう。羨ましい。

 先日、笑福亭松鶴(仁鶴や鶴瓶の師匠)の「らくだ」をCDで聴いた。松鶴の十八番ということは知っていたが、これまで松鶴の落語自体、あまり聴いたことがなかった。そうして、これがやはりいいのである。屑屋もらくだの兄貴分もあっけらかんとしていて、その分、すっと聴ける。飲み口のいい酒みたいだ。わあわあやりあって、うだうだごねて、「こんなやつら、いるなー」と感じる。上方落語で言う「我々、同様」というやつだろうか。これでいいのだ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20170326

2017-03-20 鎖国と教育 このエントリーを含むブックマーク

 タイトルに「鎖国と教育」と書いたからといって、もちろん、ターヘル・アナトミアだの緒方洪庵だのについて書こうというわけではない。おれにはそんな実力は一切ない。

 文部科学省が小中学校の学習指導要領の改訂を進めていて、一時、「鎖国」という言い方をやめることを検討していたんだそうだ。そのココロは江戸時代も種々の制限のもとながら長崎で清、オランダとの貿易は行われていたからで、確かに江戸時代、日本は完全に国を閉鎖したわけではない。

 しかし一方で、幕末の歴史では「開国」が非常に重要なテーマとなる。開国があるのに、なんで国を閉じる話がないんだ、甚だ教えにくいではないか、などという反対論があって、結局、学習指導要領では「鎖国」を使い続けることになったそうである。

 そこでちょっと不思議に思ったんだが、「開国」の対はなぜ「鎖国」なんだろうか。まあ、「閉鎖」という言葉があるから全くの間違いではないが、普通は「開」の反対は「閉」である。ドアだって、バルブ方面だって、心だって、OpenといえばClose、開とくれば閉というのがこの世の習わしだ。

 ・・・と書きながら、おれは真相を薄々感づいている。ことは小学生の教育に関わる問題だ。社会科の教科書を開きながら先生が「江戸時代に幕府は閉国(へーこく)して」と言ったときのガキめらの反応を想像してみればよい。教室は大混乱に陥って、授業は一時中断と相成るだろう。さらには、鎖国制度ならぬ閉国制度(へーこくせいど)などと口にした日にはもう。

 しかしまあ、オナラブーで笑い転げられるんだから、思えば幸せな年頃である。

愛読者愛読者 2017/03/21 14:35 小学生男子に大人気の漫画雑誌「コロコロコミック」のキャッチコピーに「バトルからウンチまで」というのがあり、確かにその年頃の男児の関心事を言い当てていると感心しました。

yinamotoyinamoto 2017/03/22 06:20 バトルとウンチ(という言葉)にあけくれる年頃ですからねー。ウンチが女に変わるくらいで、実はヨッパライと変わらなかったりして。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20170320

2017-03-12 鹿児島弁 このエントリーを含むブックマーク

 残念ながら鹿児島に行ったことがなく、今の鹿児島弁がどういうものか知らない。

 その一方で、幕末から明治維新を扱った時代劇や時代小説はたくさんあるから、おれの中での鹿児島の言葉はドラマや小説で西郷さんが使うようなもの、薩摩弁というか、いっそ西郷弁とでも呼ぶべきものになっている。

「おいもそんこっは一晩よーく考げたじゃっどん、一蔵どんのゆっこっも一理あると思うでごわんど」とかなんとか、そんなふうで、今の鹿児島の人がそんな言い方するのかどうかは知っもはん。

 時代劇の薩摩弁では「誰々さん」のことを「誰々どん」と言う(よく知らないが、「さん」より「どん」のほうが親しい感じかもしれない)。「西郷(せご)どん」とか、さっき出た「(大久保)一蔵どん」とかだ。

 では、「どんぐりさん」のことを鹿児島では「どんぐりどん」と言うのだろうか。たとえば、幼稚園児を公園に連れてきた保母さんがどんぐりを発見したとき、東京なら「ほら、どんぐりさんだよお」と幼稚園児たちに言うところを、鹿児島では「ほら、どんぐりどんでごわす」などというふうに。

 あるいは、「ドン小西さん」は「ドン小西どん」なのだろうか。

 ご存知の方は・・・教えていただかなくても大丈夫。こういうことをひとり考えて笑っているのがおれは好きなんである。

f:id:yinamoto:20170312182459j:image:w360
サーヤさぁ

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20170312

2017-03-05 靴下の墓場 このエントリーを含むブックマーク

 洗濯物を干しているとき、よく靴下の片方がなくなっていることに気づく。洗濯機のまわりや、物干しまでの動線を探してまわるのだが見つからない。

 この「靴下がなぜか片方だけなくなる現象」は国際的な問題であるらしく、イギリスでの調査によると、イギリス人は月平均1.3足の靴下(の片方?)をなくすという統計結果が出たそうだ。世知辛い世の中であるからして、イギリスでも、そしておそらく日本でも、片方だけなくした靴下は新たな靴下の需要を生み、景気の下支えをしているのであろう。また、確か、同じイギリスでこの「靴下がなぜか片方だけなくなる現象」に取り組んだ心理学者がいたと記憶している。結論は忘れてしまった。

 おれはこの謎に別の側面から光を当ててみたい。この世にはきっとどこかに「靴下の墓場」があるのだ。

「象の墓場」は有名な伝説である。象には人目につかない決まった死に場所があり、死期を悟った象はそこへ行って、ひっそりと死ぬ。「猫の墓場」伝説というのもあり、内容は象の墓場とほぼ同じである。

 そして、靴下もまた、死期を悟ると、決まった死に場所に向かうのである。夜中、あるいは家の者が全員外出しているとき、靴下はそっと旅に出る。その墓場が近いのか遠いのか、おれは知らない。靴下の死期がどんなものかもわからない。かかとの部分が擦り切れたり、親指部分に穴が開いたり、すねの部分がへたへたになったりしてもしぶとく残る靴下もあるから、必ずしもみなが老いて死ぬというわけでもないのだろう。若死を悟る靴下もあるのだ。

 靴下はペアで履くものだから、当然、靴下にはパートナーがいる。死期を悟った靴下は、パートナーにどんな挨拶をして、旅に出るのだろうか。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20170305

2017-02-26 杉野兵曹長の銅像 このエントリーを含むブックマーク

 おれは古い落語の録音をよく聞く。戦後の志ん生文楽あたりからで、幸い戦後は落語がラジオの重要なプログラムだったから録音がいろいろと残っており、CDがたくさん出ている。

 戦後しばらくの落語で、女が横倒れにくずおれる姿を、まれに「杉野兵曹長の銅像みてェな格好で」と表現して笑いを取ることがある。ただ、このたとえは当時でもわかりにくかったのか、「杉野兵曹長の銅像みてェな格好で・・・若い方にはおわかりにならないかもしれませんが」などと言い訳したりもする。

 この「杉野兵曹長の銅像」というのが今日の話である。古い落語を聴いて検索した方の便利のために書く。

 まず、「女が横倒れにくずおれる姿」だが、人によってはそもそもこれがわかりにくいかもしれない。早い話が、金色夜叉で貫一に蹴飛ばされたお宮の格好である。全然早い話じゃないか。歌舞伎や時代劇などで、女性が無体にされて「あ〜れェ〜」と倒れる、あの格好だ。

 次に、「杉野兵曹長」。これはちょっと長くなる。杉野兵曹長は、戦前に「軍神」とされた広瀬中佐の部下。二人は日露戦争の旅順港閉塞作戦に参加した。旅順港の湾口に船を沈めて、ロシア海軍を港内に封鎖しようとした作戦だ。広瀬中佐と杉野兵曹(当時)の乗る船は湾口まで近づいたところで敵の魚雷を受け、指揮官の広瀬はそのまま船を自爆して沈めることにした。杉野が爆薬に点火しに船底へ下りたが戻ってこず、先に脱出艇に乗った広瀬が自ら探しに行った。しかし、杉野は見つからず、広瀬は、脱出艇に再び乗り込もうとした瞬間、砲弾を食らい、戦死した。かくして広瀬中佐は「軍神」とされ、杉野兵曹は兵曹長に特進した。

 前段が長くなったが、これが「杉野兵曹長の銅像」である。

f:id:yinamoto:20170226175006j:image:w450

 上に立っているのが広瀬中佐、基台の上で手をついているのが「杉野兵曹長の銅像みてェな格好」をしている杉野兵曹長である。場所は東京の万世橋駅(今はもうない)前で、神田と秋葉原を結ぶ万世橋の神田側にあった。下に立つ人の背の高さと比べると、かなり巨大なものだったことがわかる。

 このリッパな銅像を女のくずおれる姿にたとえたのが当時の落語家のお手柄で、リッパなものを茶化してみたい心根があったのだろう。そして、当時の落語の観客もその心根が理解出来るから笑ったわけである。

 なお、この広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像は昭和二十二年に撤去されたそうだ。GHQが日本の軍国体制を解体していた時期で、GHQが指示したのか、それとも「このご時世にいかがなものか」的な判断が日本政府側にあったのかは知らない。今となってはもったいないことをしたものだ。おかげで、「杉野兵曹長の銅像みてェな格好」がどんなものだかわからなくなってしまった。

 万世橋は秋葉原の入り口である。もし今も残っていれば、変わり果てた日本の秋葉原を、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像はどのような心持ちで眺めるだろうか。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20170226