yuhka-unoの日記

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自分が嫌われたくない人の気遣いは、「いじめ防衛的気遣い」

母の、自分が嫌われないための気の遣い方について、色々と考えたところ、あれは、いじめがあるクラスによくある、どこかのグループに属していないといじめられるという雰囲気になった時の、グループ内での気の遣い方に似ていると思った。
相手のための思いやりではなく、ひたすら衝突を避けて、笑顔の仮面の下で、排除される恐怖に怯えている。表面上仲良くしているようで、その実相手のことが嫌いだという、あの感じだ。
おそらく、母の世界観では、社会はこのいじめが蔓延しているクラスのようなものであり、少しでも相手の機嫌を損ねてしまうと、悪く言われてしまうような、そのような考えで生きているのだろう。つまり、母がしているような、自分が嫌われたくないからする気遣いは、いわば「いじめ防衛的気遣い」なのだ。
もちろん世の中には、そういう雰囲気になっている集団はある。私も経験したからわかる。しかし、世の中の全てがこうというわけではない。しかし母は、世の中の全てがこうだと思っている。
 
母は、過剰なまでに他人に気を遣う割には、驚くほど相手の気持ちを理解する能力に乏しい。確かに、いじめられないために気を遣う状況下では、表面上の仲の良さとは裏腹に、相手を思いやる心は、逆に鈍麻されていく。ひたすら衝突を避ける集団では、相手の悲しみや辛さといったことは、無視されるのだ。自分の立場を確保しておくことに必死になっている者にとっては、そんなことを考えている余裕はない。
なるほどそうすれば、母が私に対して気を遣わないのもわかる。自分より弱い立場である子供からは、いじめられる心配がないからだ。親戚や近所の人たちに接する時、私の態度を細かく「注意」したのも、一言で言うなら、「私がいじめられるようなことしないで!」なのだろう。
 
母は、私には家事を仕込んだが、弟たちには全く家事を教えなかった。また、親戚の集まりにも、私には気を配ることを求めたが、弟は放ったらかしで、終始何もしていなくても、全く気にも止めなかった。あまりの放ったらかしぶりを見かねた私が、弟たちに僅かながらも家事を教え、親戚の集まりで手伝うように言ったくらいだ。
かといって、母は昔ながらの男尊女卑思想がはっきりとあるわけでもない。「お父さんは家事育児を手伝ってくれない」と愚痴をこぼしていたし、父の実家で親戚が集まった時、叔父たちは何もせず、女ばかりが働かされることを、心底嫌に思っていて、父の母にかなりの不満を持っていた。
それならば、なぜ自分の子供たちに対して、自分がされて嫌だったことをするのか、私には理解できなかった。父は一人暮らしが長かったので、やろうと思えば家事全般できるが、弟たちはやろうと思ってもできない分、私の目から見れば、家事に関しては、父よりも弟たちのほうが酷い。
 
おそらく母は、私を味方に引き込みたかったのではないかと思う。いじめが蔓延しているクラスにおいては、絶対的な自分の味方を確保しておきたくなるものだ。そのような世界観を持っている母は、私という味方を確保しておきたかったのかもしれない。それを、長子で女の子である私には求めたが、弟たちには求めなかったということだろう。
母が私に対して怒る時は、大抵「あんたは私の味方になってくれない!」という意味だったように思う。「私がいじめられるようなことしないで!」という叱り方もまた、「今のあんたは、私の味方になれていない!」ということなのだろう。
時に親の役割を丸投げされた時、私が母に対して抗議すると、母は大抵、「あんたなぁ、お父さんもお母さんも働いてんねんで。ちょっとは協力してよ〜」と言っていたが、これは、「あんたは、働いて苦労している私の味方になってくれない!」ということだったのだろう。
 
私の両親は、父の浮気が原因で離婚した。あの頃、両親は私に互いの愚痴を延々と言ってきた。私は感情を押し殺して、できるだけ話を聞き流すようにして、ただ相槌を打っているだけの「頷きマシーン」になっていた。両親は直接ぶつかる時もあったが、冷戦状態になる時もあり、そういう時は、私に対して「お父さんにああ言ってきて」「お母さんにこう言ってきて」と、私を伝言係にして喧嘩をしたこともあった。両親は、こうしたことを私に対してだけ行い、弟には全くしなかった。
それでも、父のほうが「自分が悪い」という意識がある分、私の目から見てまだマシだった。母は私に対して、「私は被害者なんだから、あんたは私の味方をしてくれて当たり前!」という態度になってしまい、その分遠慮がなかった。その後、母と衝突した時に、「そんなにお母さんのことが気に入らんのやったら、お父さんのところへ行ったら!お父さんとあの女と三人で暮らしたらええわ!」などと言われたことが何度かあった。
この一連の母の態度もまた、「あんたは私の味方になってくれない!」という気持ちからなのだろう。
 
子供に対して、「自分の味方に引き込みたい」という欲望を持ってしまった親にとっては、子供の個性や適性など、どうでも良いことなのかもしれない。それどころか、「(母基準で見て)いじめられそう」な私の個性は、驚異に感じられたのかもしれない。幼少期、他の子とあまり遊ばず、一人で絵を描いているのが好きだった私は、弟が生まれると、「お手伝いをよくして、弟たちの面倒をよくみる、しっかり者の良いお姉ちゃん」に仕立て上げられてしまった。母の私に対する評価軸は「私の味方として相応しいかどうか」であり、それ以外の私の特性はほとんど無視された。
もっとも、母の意識上では、他人に対する気遣いは「普通」で「常識」で「皆こうしている」であり、私に対する態度も「躾」という認識だった。
 
中学生の頃、進路を考える時期になった。「いじめられる」ことを恐れ、「普通」「常識」に安住していないと安心できない母は、娘が「普通」「常識」から外れた進路を選んでしまうのではないかと危惧した。実際その通りだったと思う。あのまま放っておくと、私は母が危惧した通りの進路を選んでいただろう。
ここで母は、自分の個人的な不安に過ぎないものを、「子供のためを思って」に置き換えてしまった。しかし、母はあからさまに「あんたはこっちの道に行きなさい」とは言えない。子供の進路に無理矢理口出しする親は、「普通」「常識」的に見ても「悪い親」だからだ。
その結果母がとった行動は、口では「子供の進路は子供が決めるもの」と言いつつ、子供を誘導し洗脳することによって、母が望んでいる道に行きたいと、子供の口から言うように仕向けることだった。既に「良いお姉ちゃん」として洗脳されていた私は、この時も洗脳されてしまった。こうして母は、「子供の自主性を重んじる良い親」という立ち位置を確保しつつ、自分の望む進路を私に歩ませることに成功したのだった。
この時、私の中で「これがやりたい」という気持ちは、抑圧され無意識の奥底に沈み込んだ。
 
これらは「弱者的支配方法」なのだと思う。母は一見、自立していて善良な人間に見えるが、心の奥底には、「他人に否定されたくない、他人に受け入れられていたい」という「甘え」が抑圧されている。
この「甘え」の欲望は、力の強いものが実行すれば、わかりやすい形のいじめっ子、誰もが思い浮かぶ支配者像になる。これは「強者的支配方法」だ。
一方、母のように、他人を威圧できるほどの力が無い者は、このような「いじめ防衛的気遣い」という態度になるのだろう。その分、いじめられる心配の無い者、例えば子供相手には、「私を否定しないで。私を受け入れて。私の味方になって」という「甘え」を、無意識に露呈させる。
 
私の父は、『甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち』で書いた通り、「強者的支配方法」型の人だった。父は家族全員に対して、「笑顔の仮面」を顔に貼り付けて、本心を隠して接しなければならない威圧感を、無意識のうちに発していた。「普通」「常識」に固執する母と、およそ「普通」「常識」的な生き方ができない父は、最初から上手くいかない夫婦ではあったものの、父と母がくっつく要因はここにあったのかもしれない。父と母は正反対なように見えて、根底に抱いている「他人に否定されたくない、他人に受け入れられたい」という欲望に、共通点があったように見える。
私にとっては、父の直接的な支配のほうがまだマシだった。なぜなら、父に対して反論できない不満を抱えていても、「私は悪くない。それはお父さんが間違っている」と思うことができたからだ。心までは支配されなかったので、父の支配は、外食恐怖症以外は、父から物理的に離れると影響を受けなくなるものだった。
しかし、母の間接的な支配は、私を洗脳し、罪悪感を植え付けさせ、心にまで侵入して来るものだった。母の支配は、母から物理的に離れても影響力を持ち続ける。父が、家族全員に同じように威圧感を発していたのに対し、母は、特に私にのみ依存した。父に対する不満は、父以外の家族全員が共有できるものであるのに対し、私の母に対する不満は、私にしかわからないもので、他の家族には全く認識できないものだった。
 
いじめの傍観者的立場にいる者は、得てして自分が加害者側の人間なのだという自覚がない。それどころか、自分はいじめっ子の支配に怯え、仕方なくそうせざるをえなかった被害者なのだと思う者すらいる。
母も長らく、「私は悪くない」「私は被害者」、そして「いじめられない」という立場を確保しておくために行動していた。その方法は、「私はこうしたい」「私はあなたにこうしてほしい」と、はっきりと自分の要望を主張するのではなく、「普通」や「常識」を持ち出し(いわゆる太宰メソッド)、口では「あんたの好きにしていいよ」と言いつつ、自分の望む方向に相手を誘導し洗脳するという、卑怯なものだった。
 
「弱者的支配方法」をする者はタチが悪い。外面はとても生真面目で善良そうでありながら、自分より弱い特定少数を間接的に支配し、真綿で首を締めるように潰してしまう。何も知らない人が傍から見れば、私たちは、とても良い母親と、母親を責める親不孝な娘としか映らないだろう。だが、実際の母は、私の個性や適性を潰し、私の「これがやりたい」という気持ちを抑圧し、私から人生というものを取り上げ、母の世界観の中で共に生きていく味方として、私を引きずり込もうとした。
もちろん母にその自覚は全くなかった。あくまでも自分は、生真面目で善良で、子供を愛し子供を思う、普通で常識的な、良き母親というのが、母の自己イメージだったのだ。
 
私の母は、ごくごく「普通」の人だ。一昔前の典型的日本人を凝縮させたような人だ。とすると、日本人は無責任だと言われる理由もわかる気がする。「普通」だから「常識」だからというのは、無責任なのだ。「私はこうしたい」「私はあなたにこうしてほしい」と、はっきりと要望を主張するのが、責任ある態度だ。「そうするのが『普通』で『常識』だからそうした」ではない。「『自分が』そうしたいからそうした」という自覚を持つことが大切だ。
「いじめ防衛的気遣い」という態度は、相手にとって本当に良い態度ではない。自然と仲良くなり、自然な距離を置いて付き合うのが、相手にとっても自分にとっても良いことだ。本当の思いやりは、そういう関係から生まれるものだ。私はそういう世界観で生きていく。
 

見えないからブラックホール -あなたの子どもを加害者にしないために
 
やがて子どもは心身の病を得るが、その背景に母親がいるとは露も思わない。その内、エネルギーが吸い取られて衰弱していくか、心が乗っ取られていく。

これすごくよくわかる。一見普通で善良そうな、父親の被害者に見える母親が、実はラスボスだったりするんだよね。
 
 
[追記]

続きを書きました。
困った親の言う「私を理解して」は、「私を良い親だと思って」
 
 
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