奥州合戦(おうしゅうかっせん)
1189年、東北地方にて鎌倉政権と奥州藤原氏の間で行われた一連の戦いの総称。治承・寿永の乱の最後の戦いであり、古代から中世への転換点となった歴史的な戦い。源頼朝は、平氏を滅ぼした後も従わず、かつ不仲になった義経をかくまったと理由で、奥州に兵を進め藤原氏を滅ぼした。これで全国平定を完了、後に武士政権を確立する。奥州征伐とも呼ばれる。
どーもKABUOです。 秋田県南秋田郡の歴史と史跡を巡る 旅に行ってきました。 今回は戦国時代には 檜山安東氏と湊安東氏が争った浦城や 江戸時代には宿場町としても栄えた 八郎潟町の原始古代から近現代までの 歴史や史跡を巡りましたので 年代を順に追ってご紹介します。 八郎潟町の歴史と史跡をご紹介! 八郎潟町役場 南秋田郡の北部に位置する八郎潟町、 町中心地から南には馬場目川が流れ 西には日本で2番目に大きい湖であった 八郎潟が広大に広がったのどかな田舎町。 町中心街は一日市町と呼ばれていましたが 1956年、一日市町と面潟村が合併、 町の歴史を支えた八郎潟から名前を取り、 現在の町名となったそう…
鎌倉時代の出来事を年表にまとめた。 鎌倉時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 平安時代 後は 室町時代 鎌倉時代の概要 鎌倉時代の政治 鎌倉時代の文化 随筆 軍記物語 歌集 彫刻 鎌倉時代の出来事 1160年 (平治元年) 源頼朝 伊豆国に 配流 1180年 (治承4年) 源頼朝 挙兵 1180年 (治承4年) 源頼朝 鶴岡八幡宮 を遷す 1183年 (寿永2年) 後鳥羽天皇 即位 1183年(寿永2年) 寿永二年十月宣旨 1184年 (元暦元年) 源頼朝 勝長寿院 建立 1185年(文治元年) 文治の勅許 1189年(文治5年) 奥州合戦 1189年 (文治5年) 北条時政 願…
今回は東北地方・美肌の霊泉「磐梯熱海(ばんだいあたみ)温泉」について! 磐梯熱海温泉・「ホテル華の湯」(ホテル公式HPより) 目次 温泉データ 所在地 :福島県郡山市 泉質 :(アルカリ性)単純温泉 源泉温度:市営源泉 約53℃ 元湯源泉etc... 約30℃ pH :9.0~9.5 湧出量 :850L/分 その他 :名湯百選、磐越三美人の湯 特徴 福島県郡山市に位置する磐梯熱海温泉、まず一つ目の特徴は泉質のすばらしさ。 アルカリ性単純温泉のやさしいながらもかなりぬるっとした湯ざわりで、落ち着いた温泉街に調和のとれた緑を眺める時間は最高のリラックスタイムになること間違いなしです。 また、磐梯熱…
宿屋敷(大石家) 中世後期に赤生津城白鳥氏の家老を務めた家柄。 寛永年間から明暦三年まで茂右衛門が初代肝入。 茂氏は生母村長、前沢町文化財委員。 箱根屋敷(三浦家) 先祖は相模国三浦半島の豪族三浦氏の後裔、戦いに敗れ福島、次いで平泉に逃れて赤生津に定住。 一族の氏神として箱根権現を祀った。 西屋敷(小野寺家) 清原武則の流れをくむ仙北郡(秋田県)横手の領主小野寺氏の後裔。奥州合戦で、源頼朝から小野寺の姓と知行を賜る。 奥州仕置で目呂木に住し、赤生津へ移住。 北畑屋敷(初貝家) 竹内屋敷(佐藤家) 東屋敷(源四郎)
アフィリエイト広告を利用しています # 源頼朝:鎌倉幕府の創設者 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本は、源頼朝という一人の武将によって大きく変わりました。源頼朝は、武家政権として知られる鎌倉幕府の初代征夷大将軍であり、日本の歴史において非常に重要な人物です。この記事では、源頼朝の生涯と彼が成し遂げたことについて簡単に紹介します。 ## 出自と若き日々 源頼朝は1147年、武士の家系である清和源氏の一員として生まれました。父は源義朝、母は藤原季範の娘で、幼名は鬼武者または鬼武丸といいました。1159年に父が平治の乱で敗れた後、頼朝は伊豆国に流され、そこで成長しました。 ## 鎌倉幕府の開…
2021年Halloween 先週のブログまで書いていた宮崎帰省編。無事に東北へ帰宅しました。帰りの電車で調べていたのはハロウィンごはんの作り方。凝ったご飯を作ったことがほとんど無いんですよ。たまには頑張っちゃおうかななんて。 おうちハロウィン 夜行バスで池ハロへ スーパーホテル大塚 池ハロ概要 打ち上げ 舎輪 おうちハロウィン じゃじゃーん!!!私の最高傑作です! 全力を出し切りました! フランスパンの上にたまごサラダ。黒猫のお皿がハロウィンっぽさを引き立てます。 真ん中はお米と海苔で作ったお化け。その周りにレトルトカレーを開封。 奥には、ハンバーグの上におばけの顔型溶けるチーズをのせたもの…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855 「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編編(1)(2)」を確認」… ここから繋げよう。 さて、本ブログもお陰様で 504の投稿で50000アクセス突破した。 2020年5月から開始して3年9ヶ月だろうか。 この数字がどんな価値なのか?、筆者的には単に学ぶ過程を公開しながらただ積み重ねてきただけなので、あまりよく解らないのだが、ステップを踏む過程での目印と思えばそんな価値はあるだろう。 拙い文章に誤字脱字… それでもこんな数字になったのは、一重に見て下さる皆…
鎌倉幕府の創設者源頼朝。彼は1147年、源義朝の三男としてこの世に誕生した。若き頼朝は、平治の乱で父が敗れた後、運命の波に翻弄され、伊豆国へと流罪となった。しかし、この地で彼は北条時政の娘、政子と出会い、結婚する。この結婚が、後の彼の運命を大きく左右することとなる。 時は流れ、1180年。頼朝は以仁王の令旨を受け、平家に対抗するための軍を組織する。彼の政治的才能と戦略は、平家の支配を終わらせ、源氏の勢力を確立する上で重要な役割を果たした。頼朝の平家に対する勝利は、頼朝を日本の武士階級の支配者として確固たるものとしたのである。 そして、1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、新たな時代の幕開けと…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 平安時代は、現代以上にブラック社会であり内憂外患の時代であった。 ・ ・ ・ ウィキペディア 刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。 ・ ・ ・ 第68代後一条天皇 (10歳) 藤原道長 (53歳) ・ ・ ・ 刀伊入寇 藤原隆家の闘い作者:葉室 麟実業之日本社Amazon ・ ・ ・ 現代日本人は、昔の日本人とは違って、日本国・日本天皇・日本民族を侵略者か…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年1月4日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「牙を抜かれ、朝廷の「武力担当」になった武士 鎌倉時代には使われなかった「鎌倉幕府」という © AERA dot. 提供 鎌倉幕府から江戸幕府まで、政権を握った武家。社会におけるその本質を、日本中世史の歴史学者、関幸彦氏の著書『武家か天皇か 中世の選択』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集して解説する。 * * * ■「武士」から「武家」へ 「武家」とは何か――。当たり前すぎて疑念さえ持ち得ない語だが、武力・…
どーもKABUOです 秋田県南秋田郡の歴史と史跡を巡る 旅に行ってきました。 今回は古くから朝市が開催される 五城目町の原始・古代から 近世・近代までの歴史や史跡を まとめましたのでご紹介します。 五城目町の歴史と史跡をご紹介! 五城目町役場 南秋田郡の北部に位置する五城目町。 町の中心部を馬場目 近世の頃より北秋田郡を結ぶ 五城目街道沿いに集落が形成され、 集積所として栄えた歴史があります。 1955年、五城目町・馬場目・富津川 大川村の合併によって 新五城目町が発足され現在に至ります。 地名の由来ですが、 平安時代中期に源順(みなみとのしたごう)が 編集を行った和名類聚抄 (わみょうのした…
足利義兼は室町幕府を開いた足利尊氏の先祖です。父は義康、妻は北条時政の娘で、兄弟には矢田義清がいます。覚一本『平家物語』には、藤戸合戦(元暦元年(1184))で源範頼軍の中にその名が見え、『吾妻鏡』では、頼朝の奥州合戦(文治五年(1189))に参加したことなどが記されています。 【鑁阿寺(ばんなじ)多宝塔と義兼手植えの大銀杏】 鑁阿寺は、建久七年(1197)に義兼が創建したとされる足利氏の氏寺です。多宝塔の傍らには、義兼のお手植えと伝わる大銀杏(天然記念物)があります。 【足利学校跡】 日本で最も古い学校とされる足利学校は、一説には義兼が創設したといわれています。その後衰退しますが、室町時代に…
今思い出すと異常だったコロナ禍のできごと:哲学ニュースnwk 後述の草津温泉に2020年の夏に行った時「入浴施設町民以外利用禁止」の貼り紙ベタベタ掲出してたの見たときは真面目に二度と来ねーぞと思った。 最近深夜車で走る機会が増えてるんですが、実に快適。正直今までドライブあんま好きでなかったんですが、イラチの自分にとって渋滞が我慢ならなかっただけみたいです。今後は深夜のドライブも趣味に加えてみようかなあ。 救えないことを恥じるくらいに思い上がりでも育ったらどうしよう 白旗湯畑と頼朝宮 建久四(1193)年鎌倉将軍の頼朝*1公が浅間山六里ヶ原の巻狩の折、この草津まで騎馬を進めあれはてた源泉地を改修…
達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂は、絶壁にへばりつくように建つ崖造りのお堂。征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建したと伝わります。
今回はかつて訪れた旅の備忘録も兼ねて相馬中村藩について。相馬中村藩は6万石、藩主は相馬氏で家格は柳間詰め外様大名、後に帝鑑間詰め譜代大名に列せられている。戊辰戦争では初め奥羽越列藩同盟に加盟して新政府軍と戦うも追い詰められて降伏。その後は仙台藩と新政府との橋渡し役をつとめたんじゃよ。 陸奥中村藩相馬氏の家紋「相馬繋ぎ馬」