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王平

(社会)
おうへい

中国後漢から三国時代の人物(? - 248年)。字(あざな)は子均。巴西郡宕渠県の人。子に王訓。

母の実家の何姓を使い「何平」と称していたこともある。

巴地方の実力者である杜濩・朴胡という人物の勢力下にあった。曹操張魯を討つために漢中に進出してくると、杜濩・朴胡は曹操に帰服した。王平は一時は彼らに従って洛陽(略陽の誤記ともされる)に赴いたが、後に漢中を曹操から奪った劉備(蜀漢の創始者)に仕えた。

諸葛亮北伐を開始するとそれに従軍した。街亭の戦いでは馬謖の隊に所属し、馬謖の作戦や指揮の拙さをたびたび諫言したが容れられなかった。結局、馬謖の軍は大敗を喫したが、王平の指揮する部隊だけは持ちこたえて、残軍をまとめて無事に退却してきたため、諸葛亮にその能力を認められ、敗戦であったにもかかわらずかえって出世した。

234年に諸葛亮が没すると、将軍の魏延が反乱を起こしたが、その平定には王平の働きが大きかった。その後、漢中を守備する呉懿の副将となり、呉懿の死後は王平が一時は漢中の守将となり、蒋琬蒋エン)が幕府を漢中に移すとその事務は王平が司った。

243年に蔣琬が病のため前線から退くと、再び漢中の指揮を取る立場となった。244年に曹魏の曹爽が侵攻してきたときは、当初は劣勢であったが、王平の働きもあって費禕の援軍がくるまで持ちこたえ、これを撃退した。

晩年には軍中にあって、鄧芝(トウ芝)、馬忠と並び称される重鎮にまでなった。文字はほとんど知らなかったものの、口述で文書を立派に作成し、『史記』や『漢書』を読み聞かせであるが内容をほとんど理解できたという。

『三国志演義』では漢中争奪戦で当初は曹操の部将の徐晃の配下として登場するが、作戦をめぐって意見が対立し、徐晃に疎まれたため劉備に寝返っている。

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