社会心理学者。北海道大学名誉教授。 1948年(昭和23年)1月21日、生まれ。2018年(平成30年)5月8日、死去。 2004年(平成16年)、紫綬褒章。 2013年(平成25年)、文化功労者。 『信頼の構造』(ISBN:4130111086)で日経・経済図書文化賞を受賞。その啓蒙普及版として『安心社会から信頼社会へ』(ISBN:4121014790)がある。
まず 一番初めにお詫びから ごめんなさい 今、すっごくバタバタしていて なかなか皆様のブログにお邪魔できておりません あと何日かで落ち着くと思うので そういたしましたら 訪問させていただく所存でございます どうぞ よろしくお願いいたします (ただいま、いざという時のための 書き溜め分を放出中 残りが少なくなってきて、足りるかドキドキ) 今訪問してくださる方は少ないかな、と思うので 以下は 単なる私の覚書です 山岸俊男さんという方が 社会の形には 安心社会と信頼社会があって 日本は安心社会だと書いていた 安心社会は閉鎖的 信頼社会は開放的 閉鎖的な社会では 構成員がほぼ変わらず よそ者を排除して…
政治で、うったえかけを行なう。 アメリカでは、大学の学生がうったえかけの運動を行なっているという。イスラエルを批判する声をあげる。イスラエルがパレスチナに暴力をふるっているのを批判する。 学生が政治のうったえかけの運動をするのには疑問の声もあるが、そこには希望はあるのだろうか。 一〇割の希望もなく、一〇割の絶望もまたない。希望は虚妄であるのとともに、絶望もまた虚妄である。中国の文学者の魯迅(ろじん)氏はそう言う。 せっかく大学に入ったのに、そこを退学させられてしまいかねないような、政治のうったえかけの運動を行なうのはもったいない。考えものだ。日本のテレビ番組の出演者はそう言っていた。 日本の大…
教育勅語(ちょくご)を政治家がよしとする。そのことについてをどのようにとらえられるだろうか。 教育勅語によって、背すじが伸びるか、それとも背すじが凍るか。好きか、きらいか。どちらの受けとり方になるのかを、政治家がウェブの X(Twitter)によって調べていた。X の利用者に問いたずねていた。利用者の回答の数を調べる機能が X にはある。 勅語とは、天皇の命令の言葉である。天皇の意思を表示したものだ。教育に関する勅語なのが、教育勅語である。戦前の一八九〇年に発布された。戦前の日本は勅語の体制だった。 何をうたがうようにするべきかがある。教育勅語そのものであるよりも、それをよしとする政治家をうた…
日本の経済をよくして行く。 経済をよくするために、当たり前のことをやって行く。積極の財政だ。国の財政でお金(借金をふくむ)をどんどん使って行く。 あたり前のことをやれば、日本の経済はよくなって行くのだろうか。 ほんとうに芯のところにあることなのではなくて、芯からずれてしまう。ずれたことが言われてしまう。 まさに芯に当たることではないものが、あたかも芯に当たることであるかのようにされてしまう。ずれがおきることになる。 ずれているもののほうが、受けがよい。人々からの受けがよいことが言われることになり、どんどん芯からずれて行ってしまう。芯からのずれが大きくなって行く。 受けが必ずしもよくないのが、芯…
前に言った通り本の話をする。 自分の価値観の指向性を確定させたのがこの本、"安心社会から信頼社会へ:日本型システムの行方"である。 この本で自分は日本と海外では社会的関係性及び規範意識の構築のされ方が全く違うと理解した。 本書で記載されている"安心社会"と"信頼社会"の定義と違いはこうである。 ・安心社会 関係性の固定(コミットメント)化、構造化を行い、各種リスクの軽減及び無力化を図る社会環境 ・信頼社会 関係性の流動化とリーダーシップ(信頼性)による各種利益の最大化を図る社会環境 日本が安心社会、海外が信頼社会と言われている。余談だが、安心社会の形態をとっている国は世界で日本のみである。 本…
テレビ番組で出演者が万博を批判することを言う。 番組の中における万博への批判をどのようにとらえられるだろうか。 批判を言った出演者は、万博への出入りを禁じる。万博から排除する。万博の関係者の政治家はそう言った。 二〇二五年に関西で行なわれるのが日本国際博覧会だ。 なんでテレビ番組や新聞では万博への批判があまりなされないのかといえば、報道の媒体は、国の思想の傾向(ideology)の装置だからだ。 二〇二一年に開かれた東京五輪でも、それを良しとする報道が多かった。五輪を批判する報道はあまりなされなかったのである。五輪に協調してしまう。報道の媒体が、国の思想の傾向の装置であることから来ている。 国…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。 日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。 日本の宗教・文化・…
パレスチナでは、暴力がふるわれている。イスラエルの国によってだ。 イスラエルがやっている暴力にたいして世界の色々な所で批判の声があげられている。具体としてのイスラエルの暴力をどういうふうにとらえられるだろうか。 具体論としては、イスラエルがパレスチナにたいして暴力をふるう。具体からやや離れて抽象論で見てみたい。 抽象論によって見てみると、ある場所において、ある地域または人々にたいして暴力がふるわれている。そのさいの暴力とはいったいどういったものなのだろうか。 イスラエルによって暴力をふるわれているのがパレスチナの地域またはパレスチナ人の人たちだ。パレスチナの地域またはパレスチナ人の人たちはなん…
政治のうら金において、核となる政治家はいったい誰なのだろうか。 周辺と核心の二つにふ分けしたさいに、核心に当たる政治家として、森喜朗元首相がいそうだ。 与党である自由民主党の森元首相は核に当たる。どうぶつで言うところの猫だと見なしてみたい。 ねこの首に鈴をかけに行く。ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行けるかどうかが試されている。 社会の矛盾(dilemma)を片づけて行く。日本ではねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとしづらい。社会の矛盾がなかなか片づかないのである。 きびしい批判の声が投げかけられているのが、政治のうら金についてだ。うら金について人々からきびしい批判が投げかけられているのが…
国がだらくする。堕落や退廃(decadance)の点から、パレスチナを攻撃しているイスラエルを見て行く。 だらくがおきているのがイスラエルだとすると、どういったふうにそれを見て行けるだろうか。 正義のために戦う。正戦論だ。戦争観で、正戦論になっているのがイスラエルだろう。正義のためにパレスチナに暴力をふるう。 冬の王をやっつける。冬の王は、イスラエルにとっての敵だ。冬の王をたおして、春(夏)を呼びこむ。敵さえやっつけられれば春がやってくる。文学の理論のカーニヴァル理論だ。 平和な中にあっては、はっきりした目標を持ちづらい。何をすればよいのかが定かではない。これといった答えを見出しづらいのである…
政治家は(あまり)つかまらない。その代わりに、秘書や会計の責任者がつかまった。政治のうら金では、政治家ではなくて、下の者がつかまった。 うら金のことでは、あたかも政治家の身代わりであるかのように、秘書や会計の責任者がつかまったが、それでよいのだろうか。 因果の関係から見てみると、個人の要因と、状況の要因の二つで見てみられる。 お金を管理して行く。そのさいに、性悪説で見ることがいる。性悪説を前提の条件にしなければならない。お金に関することで、もしも悪いことができるありようになっているのだとしたら、悪いことをしてしまう。それが人間のさがである。 悪いことができるありようになっているのにもかかわらず…
万博をお笑いの点から見てみる。そうするとどういったことが見えてくるだろうか。 二〇二五年に関西で開かれるのが万博だ。 万博をよしとする。お笑いでは、お笑い芸人の人で、そうした人がいる。万博に協調しているお笑いの芸人だ。 すべてのお笑いの芸人が万博に協調しているとは言えそうにない。非協調なお笑いの芸人も中にはいる。 範ちゅうと価値にふ分けしてみたい。お笑いの芸人の範ちゅう(集合)の中で、万博に協調する人もいれば非協調な人も含む。さまざまな価値をふくむ。範ちゅうの中にはさまざまな価値が含まれている。 非協調なお笑いの芸人としては、西川のりお氏がいる。万博を批判することを言っている。万博についての本…
インターネット的 (PHP新書) 作者:糸井重里 PHP研究所 Amazon 『インターネット的』糸井重里著を久々に再読する。昔、書いたレビューを。 「インターネット」と「インターネット的」とは、どう違うのか。「インターネット」は、通信メディアの一手段、作者は「伝える仕組み」と言っているが、「インターネット的」となると、なにやら、ムープメントとか潮流とかそういう社会全体の動きなどといったニュアンスを含んでいるようだ。 国内のインターネット人口は3000万人を突破し、うち自宅での利用者数はおおよそ2395万人だそうだ(「ネットレイティングス」発表 2001年6月現在)。 『ほぼ日刊イトイ新聞』は…
立憲民主党が、自民と共闘した。 京都の市長の選挙で、野党の立憲民主党は、与党の自由民主党と組んだ。それは悪いことだったのだろうか。 反共(反共産主義)によって、立憲民主党と自民は選挙で組んだのがあり、かなり多くの批判が立憲民主党には投げかけられている。 野党において、何がいるのかといえば、立憲の野党がまとまり合う。立憲主義(憲法主義)の野党どうしでお互いにまとまり合うことがいる。そう見なしてみたい。 なんで立憲主義を主とすることがいるのかといえば、国の根本なのが憲法だからである。国において根本にあるのが憲法なのだから、立憲の野党どうしでまとまり合うことがいる。木の幹と枝葉だったら、枝葉よりも幹…
政治家を、検察が捜査する。 捜査を行なう主体は検察だ。行動者なのが主体である。 政治家は客体だ。相手なのが客体である。 主体と客体を、動物になぞらえてみると、どういったとらえ方ができるだろうか。 検察はねずみである。政治家はねこだ。 自由民主党の権力をもった政治家は猫である。その猫の首に、ねずみたちが鈴をかける。 猫の首に鈴をかけることができたのかどうかがある。ねずみたちはそれをすることができたのかといえば、できなかった。猫の首に鈴をかけることができずに終わったのである。 もしも猫の首に鈴をかけることができれば、矛盾が片づく。矛盾が解決する。 猫の首に鈴をかけることに失敗すると、矛盾が片づかな…
政治で、うら金をためこむ。そのことで、政治家はつかまらない。その代わりに、秘書や(はばつの)会計の責任者が罪を問われている。 うら金をためこんでいたのは、派閥(はばつ)にぞくする政治家たちだ。それなのに、政治家は罪をまぬがれて、秘書や会計の責任者が罪を問われるのでよいのだろうか。 罪とばつがある。それらのつり合いがある。矯正(きょうせい)の正義だ。二つの項(こう)である罪とばつのつり合いをとって行く。組みではなくてふ分けしてみると二つの項であり、罪は罪で、ばつはばつだ。 罪とばつのそれぞれの項はもとは別々のものである。二つの項を結びつける。応報律(おうほうりつ)だ。物語である。 物語であるのが…