平安時代中期の公卿・歌人。三条右大臣と号する。
貞観十五(873)年生、承平二(932)年没。
内大臣藤原高藤の次男。母は宮内大輔宮道弥益の娘である従三位引子。同母兄姉には和泉大将藤原定国、宇多天皇女御藤原胤子。藤原兼輔は従兄弟。息子には藤原朝忠。娘の仁善子は三条御息所と呼ばれた。
延長二(924)年に右大臣となる。最終官位は従二位(没後、従一位追贈)。
藤原兼輔と並んで、醍醐朝の文化的なパトロンであり、二人の間には姻戚関係もあった*1。
家集には『三条右大臣集』。『古今和歌集』以下の勅撰集に入集。
名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
百人一首 25/後撰和歌集 巻十一 恋三 701
ほか女子十三名
*1:藤原定方の三女が藤原兼輔の妻