“おもしろいこと”も“ガツンと来る衝撃”も、待っているだけではやってこない。ちょっと目を離せばもうすぐに埋もれていくから、ちゃんと目を開けて、自ら探しに行かなけりゃならない。最小限の歩数しか得てない私は、“待っている”意識はないけれども、状態は待っているに等しいだろう。それでもって、嘆いているつもりもないのだ。“すべき”私の停滞を見て、嘆いているのは周囲の方。 私は妙なとこに意識の切り分けがあって、例えば仕事で得る達成感を自らの物とは思えない。業務上で「あなたのおかげよ」と感謝されても、相当のお給金を貰っても、それが私自身の“評価”に感じない。社会的には紛れもなくそれが“私”であり“評価対象”…