「間」が抜けているのは、子供を待ってやれない親のみならず、教員にだっている。そして彼らは沈黙する子供を前にべらべらと性懲りもなく、空滑りするコトバを吐いて得々としている。言葉のシャワー? いや、これは意味が違う。親の代弁が子供の言葉の世界を広げるわけがない。寧ろそれは洗脳に近い歪んだ教育であり、子供にその狭隘な視野をそっくり受け継がせる愚行に外ならない。そんなに沈黙が怖いのか、そんなに自分の子供が信用ならないか。なるほど、つまるところ親や教員としての自分に自信がないだけなのだろう。 自分と子供とのあいだに生じた「間」が耐えがたいものになるか、はたまたそこに言葉が介在せずとも、親子の豊かな精神的…