戦国武将。天文11年〜天正11年。 通称は瀬兵衛。当初は池田勝正に属し、のち、荒木村重の配下となる。 摂津茨木城主時代に荒木村重の謀反が起きると、当初は村重に従ったものの、信長に攻められると降り、そのまま村重包囲陣に加えられている。 本能寺の変後、羽柴勢に加わり山崎の合戦で活躍。
賤ヶ岳の合戦で、序盤の大岩山砦守備戦で奮闘するも戦死している。
なお、中川家自体は後に竹田藩(岡藩)藩主となり、明治維新を迎えている。
反逆(上)【電子書籍】[ 遠藤周作 ]価格: 671 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 摂津国池田家の家臣だった荒木村重は、主君を裏切り下剋上を果たして茨木城の城主となった。しかし大国に囲まれて、新たに主君を選ばなくては国を存続できない。村重は日の出の勢いがあった織田信長に誼を繋ごうとするが、比叡山を焼き討ちしたこと、親類縁者であっても尾張統一のために殺害を繰り返すなど非情な行為を聞き、信長を主人とするべきか決断ができなかった。 迷う村童に対して木下藤吉郎がやって来る。摂津一国を与えるとともに信長の最愛の室、生方の娘 だしを嫁がせると提示され、村重は信長に従う決意をする。しかし信長と謁見した村…
秀吉は、信長横死のさい多数派工作のため、天正10年6月5日づけで「京より罷り下り候者たしかに申し候、(闕字)上様*1ならび殿様*2いずれも御別儀なく、御切り抜けなされ候、膳所が崎*3へ御退きなされ候」*4と中川清秀にあてて虚偽の情報を意図的に流した*5。「京よりの使者が申したことなので確かだ」というのはみずからの情報源が正規の使者によるものとして正確性を、「近江の膳所に逃れた」とは信長らが実際に逃れうる、京都近くの琵琶湖南岸の地名を挙げることで現実性や「希望」を持たせる効果があったことだろう。一方清秀は、それに一杯食わされたのか、それとも渡りに船とばかりに便乗したのか思惑は様々ありえただろうが…