戦国武将。天文11年〜天正11年。 通称は瀬兵衛。当初は池田勝正に属し、のち、荒木村重の配下となる。 摂津茨木城主時代に荒木村重の謀反が起きると、当初は村重に従ったものの、信長に攻められると降り、そのまま村重包囲陣に加えられている。 本能寺の変後、羽柴勢に加わり山崎の合戦で活躍。
賤ヶ岳の合戦で、序盤の大岩山砦守備戦で奮闘するも戦死している。
なお、中川家自体は後に竹田藩(岡藩)藩主となり、明治維新を迎えている。
秀吉は、信長横死のさい多数派工作のため、天正10年6月5日づけで「京より罷り下り候者たしかに申し候、(闕字)上様*1ならび殿様*2いずれも御別儀なく、御切り抜けなされ候、膳所が崎*3へ御退きなされ候」*4と中川清秀にあてて虚偽の情報を意図的に流した*5。「京よりの使者が申したことなので確かだ」というのはみずからの情報源が正規の使者によるものとして正確性を、「近江の膳所に逃れた」とは信長らが実際に逃れうる、京都近くの琵琶湖南岸の地名を挙げることで現実性や「希望」を持たせる効果があったことだろう。一方清秀は、それに一杯食わされたのか、それとも渡りに船とばかりに便乗したのか思惑は様々ありえただろうが…
高槻城址碑 高槻城は、伝承では正暦年間(990-95)に地元の豪族近藤忠範が築いたというが、史料上で確認されるのは建武年間(1334-38)後期で、北朝側に立った入江春則が高槻周辺で勢力を拡げ、高槻城を補修して居城したとある。ただ、この頃は居館に近い形式だったようだ。 次に高槻城が登場するのは大永7年(1527)で、両細川の乱での桂川の合戦の前哨戦において、細川高国側の摂津守護代薬師寺国長が敗れて高槻城に落ちたとある。ただ、春則の子孫がこの頃も本拠としていたようで、国長の城というわけではなく、単に落去先に選ばれただけのようだ。実際、後の入江春継(春景)は高槻城に居城し、三好家に従っている。 三…
茨木小学校に復元されている茨木城櫓門 茨木城は、建武の新政下で摂津を得た楠木正成が建武年間(1334-36)に築城したと伝わるが、あくまで伝承であり、詳細は不明というのが実情である。その他にも、信長の家臣福富秀勝による築城説や、安富元綱の指揮下にあった山城国西岡衆の野田泰忠が応仁元年(1467)に茨木城に陣を敷いたことから安富氏による築城説もあるが、いずれも推測に過ぎない。 この築城説もある応仁元年に勃発した応仁の乱前後より、騒乱が続くことで全国的に国人や地侍といった地付きの勢力が伸びてくるが、この茨木に勢力を持っていたのは茨木氏であった。 茨木氏は、応仁の乱では細川勝元に従ったようだが、文明…
人は誰でも才能を持っています。無能な人はおりません。ただ、その才能は世間的な尺度で計る才能では無く、全く別の尺度の才能です。婆が言う才能とは、好奇心の才能を言います。 生まれて間もない赤ん坊は、ベッドでじっとしていながらも、動くものに興味を示し、じっと見つめています。這い這いする頃になると、床にある小さな黒いシミや落ちているゴミに手を伸ばし、不思議そうな顔をして指でそれを掴もうとします。そして掴むと、口に持って行きます。食べられるかどうか先ず試してみます。幼稚園に入る頃になると、「これなあに」「あれなあに」「どうして」「なぜ」と親を困らせる様な質問を連発します。これが好奇心です。この好奇心は誰…
総持寺遠景 2023年、新年明けましておめでとうございます! 昨年は専任となったことから、仕事が多忙を極め、あまりブログの更新ができませんでした。忙しさを言い訳にしていたように思い、反省しきりです。 新年1発目の記事は、前年と同様初詣の記事です。和歌山から転居して以来、恒例となりました総持寺への初詣に行ってまいりました。その様子をレポートしたいと思います。 西国三十三所×街道を行くぞ!コラボ企画 2023年 初詣 総持寺 西国街道 新豊川橋から太田東芝児童遊園まで 太田東芝遊園から第二十二番札所 総持寺まで 南坊の巡礼記「総持寺 初詣」(2023.1.2) 帰り道 西国三十三所×街道を行くぞ!…
熊本平野の会戦で敗れた薩軍は熊本市南東の木山から浜町(矢部)を通って人吉盆地方面に向かう様子だった。官軍側では4月25日に木山の灰塚で以降の進軍部署を協議した。もし薩軍が人吉に立て籠もるならば、西側の八代から進撃し、都城に立て籠もるならば鹿児島に分遣した部隊と協議して進路を決めよう、人吉南西側の大口方面に対しては鹿児島県北西部の出水から進撃しようというものである。その結果、阿蘇山南東側に進んだのは別働第二旅団・熊本鎮台・第一旅団・第二旅団・第三旅団だった。 五月一日雨天当濱甼周圍エ更ニ胸壁ヲ築キ各所エ間諜或ハ斥候ヲ出ス 官軍は地元民を使って薩軍の状況を探っていた。これは5月に限らない。下記のよ…
戦国史研究。戦国時代は日本の歴史上人気が高い時代の一つだ。摂関藤原氏や執権北条氏を誰一人知らないような者でも、戦国武将を一人も知らないのはまずあり得ないと言っていいほど、現代に生きている者にとって戦国時代のコンテンツは日常にある。中世から近世への移行期という時代は、直近の幕末・維新期ほどの生々しさもなく、変動期に生きた群雄の多様な生き様がどこかしら現代人に訴えかけるからだろう。その一方で、だからこそ戦国武将をめぐる言説にはすでに一定のイメージがある。戦国史研究もまた知らず知らずのうちに通説的観念の呪縛を受けてきた。しかし、近年そうしたイメージはあくまでイメージであり、江戸時代以降あるいは最近に…
(ウォーキングC47) ※ブログ全体の記事数の整理のため、分割していた本編の記事を一つにまとめ、再投稿するものです。写真67枚。 ↓ショートVer 本日は2018年11月10日。出発地に向けて新快速電車に乗り込みます。 大阪駅を出発して137kmを乗り換え無し、2時間ほど掛けて目的地の駅である北陸線余呉駅に到着です。 JR西日本ではここも日帰り圏内ということで、券売機では買えない距離なくせして「当日限り有効」な切符になってしまいます。実は帰りも同じ2270円区間なのに2日間有効なので納得できませんw
皆さんこんにちは。 筒井順慶という戦国武将がいます。 大和国(現奈良県)の国人領主の出身で、戦国きっての梟雄・松永久秀と大和国の覇権を争った順慶は、最終的に久秀に勝利して大和一国の守護に上り詰めた人物です。 しかし、順慶の名は一般に、「洞ヶ峠の順慶」として広まりました。 本能寺の変に際して大恩ある明智光秀を裏切り、山崎の戦いでは日和見を決め込んで参加せず、最終的に勝ち馬の羽柴秀吉についたとされ、「優柔不断な狡い武将」という負のイメージが、以後つきまとうことになってしまいました。 一方、順慶とともに光秀の有力組下大名だった細川藤孝も、姻戚関係にある光秀に味方しなかった点では順慶同様ながら、本能寺…
『日帰り山あるき関西』の全コースを制覇するため賤ヶ岳に登る。 zhizuchangle.hatenablog.com 09:00 余呉駅出発 09:20 岩崎山 09:40 大岩山(中川清秀の墓) 09:50 猿が馬場 10:20 賤ヶ岳 11:30 権現峠 12:00 神明山 12:15 堂木山 12:50 余呉駅到着 09:00 余呉駅出発 「余呉湖 観光館」から登る道もあるようだが、余呉湖に行く手前の道から登る。 Googleマップにも出てない小さな神社。 09:20 岩崎山 少し道をそれると岩崎山砦跡がある。 岩崎山砦跡天正11年1583年賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉方の摂津高槻城主、キリシ…
三好長慶さん生誕500年……ということで、気がつけば大阪府で3つも三好長慶さんの展示が催されていてかんたんいたしました。 意を決して3地点をいっぺんに回ってみましたが、3地点制覇なんてロマサガ/ミンサガ以来の挑戦で楽しかったですわ。 大東市立歴史民俗資料館「三好長慶と大東市の中世―飯盛城はそのとき―」 rekisupo.com 一か所目はオールドキャッスル飯盛城を擁する大東市。 いつの間にか三好長慶さんの漫画まで発売されていてびっくりです。 漫画版の三好長慶さんはまっとうに伝記漫画の主人公っぽくて素晴らしい仕上がり。 供を連れずに一人でぷらぷら出歩いている長慶さんの解像度が個人的に好き。 爽や…
山崎の戦いまでの出来事を簡単解説 1582年6月2日、明智光秀は突如、謀反を起こし、主君の織田信長を本能寺で討ちました。この報は、その頃中国山地で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉に伝えられます。秀吉は、急いで毛利軍と和議を結び、京都に引き返しました。 本能寺の変の頃の織田軍諸将の所在地 布陣 この報を受け、光秀は西国から京へ行くときの要衝、山崎の地で秀吉を迎え撃とうとします。その数約1万5000。秀吉軍は途中、四国出兵の準備をしていた丹羽長秀・織田信孝も加わり、4万の大軍となって光秀が待つ山崎にたどり着き、両軍はにらみ合います。 山崎の戦い布陣図 参戦武将と兵力 羽柴軍 総兵力・・・・・・・・・40…
明智光秀の生涯を簡単に解説 明智光秀は言わずとしれた、史上一の裏切り者です。織田信長の家来であったにもかかわらず、寝込みを襲い本能寺にて、自害に追い込み天下を取りました。しかし、同じ信長の家来、羽柴秀吉の中国大返しで、事態は急変。山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走中に落ち武者狩りにあい、命を落としました。 三日天下とは 明智光秀が織田信長を倒し、天下を取ったところから、秀吉に山崎の戦いに敗れて天下を秀吉に奪われるまでの天下を握っていた期間がとても短かったことから、そう言われます。三日天下と言われますが、光秀が天下を取っていたのは実際には11日です。 三日天下の間の出来事を日毎に深堀! 光秀は織田信長…
はい、では前回の続きから❣ shion0324.hatenablog.com私の勘が冴え渡る…! と思ったのも束の間、なんかちょっと違うっぽい(;´Д`) 取り合えず、ここで信忠を食い止めなければならないということだけは確かですね…!腐発言…というより、CP表記ありとネタバレ全開ですので、それでもおkの方は続きからー o(・ω・ヽ)(/・ω・)o レッツゴー♪
はい、では前回の続きから❣相変わらず中核が分からないものの、すっかり面影も第三部隊と仲間になれたようで安心しました(*´ω`) しつこいですが、絶対信忠だと思う…じゃないとここまでのことに辻褄が合わない(。-`ω-) 後は無事にこの任務が成功するだけなのですが…。ネタバレ全開ですので、それでもおkの方は続きからー o(・ω・ヽ)(/・ω・)o レッツゴー♪
花熊城や鼻熊城とも書かれることがある平山城の海城。 築城年代は、永禄10年(1567)とも天正年間(1573-93.1)の初期ともいわれ、信長の命を受けた荒木村重によって築城されたという説が一般的だ。しかし、永禄10年説であれば、上洛した信長が摂津池田の池田勝正を臣従させる前であり、当時は勝正の配下であった村重の築城と考えるのには無理がある。従って、当時摂津に勢力を持っていた三好家の誰かということになり、西摂津の拠点だった滝山城の支城として築かれたと見るのが妥当だろう。 一方、天正年間の築城であれば、それは間違いなく織田氏と対立していた本願寺対策の為に村重が築いたものであり、瀬戸内海を介して繋…