仏教思想もまた、身体を煩悩の宿るところとして精神よりも下にみました。 釈迦は、身体を痛めつけるほどの修業をし、精神的解脱を目指したのです。 それは身体を痛めつけたら解脱できるのでないということですが、 身体を痛めつけての修行で得たのです。そこは身体と修行の関係をきちんと 捉える必要があるのです。言葉で語るほど、捉えにくくもなります。 身体で語る術を得ていくとして、そこも術になりかねないのです。 私もまた悩むところなのです。