サントリーの名物社長、会長。1999年11月3日肺炎のため死去。享年80歳。
サントリーの創業者、鳥居信治郎氏の二男。率直な物言いで時に「熊襲(くまそ)発言」などの舌禍事件も起こしたが、若乃花の結婚の媒酌人を務めたり、プロ野球球団買収に夢をかけるなど、カリスマ的な持ち味の名物経営者だった。
佐治氏は「ウイスキーを茶の間に持ち込んだ男」と言われた。創設者・鳥井信治郎氏の二男だが中学の時に母方の親類の養子となり名字が変わった。大阪大理学部を卒業後、兵役を経て1945年(昭和20年)9月、寿屋(現サントリー)に入社した。
「一番大事なウイスキーの原酒をためてあった京都の山崎工場が奇跡的に無傷やった。原酒さえあれば、ウイスキーを作れる」。進駐軍への売り込みを行い、将校の接待で自然と英語を身につけたという。
翌46年「これからは大衆消費時代や。大衆の手に届くウイスキーを出すべきだ」と「トリス」を発売。柳原良平氏のイラスト「アンクル・トリス」と、山口瞳氏の「トリスを飲んでハワイへ行こう」というキャッチコピーは一大ブームを呼び、ウイスキーの大衆化を根付かせた。「若者の柔軟な発想を摘んではいかん。やってみなはれ」が口癖で、企業の宣伝部がヒット商品を生む模範と言われた。
一方、61年のサントリー美術館設立を手始めに、企業経営の枠を超えた文化事業を進め、国際的な文化交流にも貢献した。
佐治氏の自由奔放さと率直な発言は時に舌禍事件も呼んだ。88年に遷都論に絡み「東北は熊襲(くまそ)の産地。文化程度が低い」と発言し、抗議を受け、不買運動も起こった。このときは自ら東北に出向き、涙を流して謝罪して事態収拾を図った。
スポーツ、文化事業にも力を注ぎ、大相撲の若乃花、貴乃花の後援会長を務め、若乃花の結婚では媒酌人を務めた。73年にバレーボール部、80年にラグビー部を創設し、ブームを盛り上げた。「プロ野球球団を持ちたい」という夢を持ち、米国のマイナーリーグを所有したこともある。89年(平成元年)には阪神、92年にはオリックス、大洋(現横浜)の買収に関心を寄せ、97年には大リーグ、ドジャース買収にも身を乗り出していたとされる。
モットーは「美感遊創(すべて常に心にゆとりを持ち、新鮮な感性を養い、豊かな創造を生む)」。90年3月に社長から会長になって第一線から退いた形だが、サントリーの顔であり続けた。